Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「オルセー美術館展」(国立新美術館) その4

2014年09月16日 12時27分27秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 印象派の長老格のカミーユ・ピサロは昔から私のお気に入りである。今回の展示では4点の作品を見ることができた。どれも好きな絵であるが、「白い霜」(1873)は立ち並ぶポプラと思われる樹木の長い影が何本も描かれていて特異な画面である。大胆な描写だと思う。1874年の第1回印象派展で展示された作品である。
 異常に長い樹木の影で、冬の日の早朝であることが分かるが、題名を見ないと霜だとは気がつかないのが気になる人もいるかもしれない。このように影を大胆に何本も描くのは多分それまでの絵画技法では受け入れられるものではなかったと思う。印象派というのは、規範をあくまでも画家ひとりひとりの美の判断に任せたことも手柄のひとつだと思う。畑の起伏がこの影でよくわかる工夫なのだろう。
 ピサロは後年クロポトキンの影響を受けて農民の労働現場の絵を描いているが、私はこれらの絵はあまり好みではない。人物を描く場合は、初期のこの絵のように点景として描いたものの方が私は好きだ。マネやモネのように人の営みが滲み出る風景画が好きだが、カミユの場合はこのように人が描かれていても特に物語を匂わせない。根っからの風景画家だと私は思う。どうして、しかしクロポトキンの影響というのは興味をそそられる。



 数少ない印象派の女性画家のベルト・モリゾの名はマネのモデルとしても有名。マネの「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」(1872)が記憶に残っている。展示されている「ゆりかご」(1872)はともに画家を目指した姉エドマとその子とのことである。カミーユ・ピサロの「白い霜」とともに第一回印象派展に出品された絵。
 23歳の1964年から1973年まではサロンの常連出品画家であったとのことは最近知った。
 この画家の作品は人物像がいい。この人の絵は人物が描かれていないと落ち着かないと思う。しっとりとした情感が私の好みである。繊細な筆さばきに思える。
 マネの弟と結婚し娘をもうけている。夫と娘を描いた「庭のウジェーヌ・マネと娘」(1883)は緑溢れる庭の中の2人の姿が印象的である。「ゆりかご」とは違って荒いタッチにもかかわらず、強い光と人物が柔らかく描かれている。対照的だが、どちらも惹かれる。



 ジャン=フランソワ・ラファエリの名は初めて知った。ネットの人物辞典では「ドガに推薦され第五、六回印象派展に参加。貧困層を描き社会的批判に満ちた作品を描いた。もともとジェロームに師事し、写実的傾向の絵を描いていたため印象派展のイメージをゆがめ、ドガと他の印象派達の亀裂を深める原因となった。カイユボット達はラファエリが印象派展に加わることを大変いやがっていた」とある。複雑な印象派内部の人物関係がうかがえる。1970年、76年にサロンに入選しその絵がもとで、ドガなどと知り合いになったようだ。性格的な問題なのか、技法上の問題なのか、交友範囲の問題なのか、これらの記事では推察できないのが残念である。
 この「ジャン=ル=ボワトゥーの家族、ブルガヌーの農民達」(1876)を見た時、マネの「笛を吹く少年」との類似があるように思えた。またセザンヌの「トランプをする人々」のように右の農婦の手が大きく描かれているのが目についた。もう一人の農婦の手は大きくは描いていない。右の年老いた農婦の手を強調しようとしたのか、単なるアンバランスなのか、判断に苦しむ。しかし大胆に左端の男を縦に半分きった構図も面白い。白い壁の色とのバランスからうまい具合にカットしたなぁと思った。
 4人の視線が統一されていないのも大胆で斬新なのかもしれない。不思議な群像かもしれない。



 肖像画のコーナーではジェームス・アボット・マクニール・ホイッスラーの「灰色と黒のアレンジメント第1番」(1871)が強く印象に残った。ホィッスラー展が、12月6日から来年3月1日まで横浜美術館で開催されるので、そこでもじっくりと見たいと思う。画家の詳しいことは知らないが、音楽用語を使った題名といい、落ち着いた色調といい気になる画家である。
 これまでは「黒と金色のノクターン-落下する花火」(1875)が印象に残っている。
 横顔の母親の肖像だが、顔の表情に比重が置かれていない。これがかえって魅力になっている。



 肖像画のコーナーではモネの「死の床のカミーユ」(1879)も展示されている。



 ジャン=フランソワ・ミレーの「晩鐘」(1857-59)も展示されている。この絵はいつも惹かれる。今回は私は空の表情に惹かれた。夕刻の空の雲の色のグラデーションに目が吸い寄せられた。
 ミレーの絵については、井出洋一郎の「「農民画家」ミレーの真実」で述べたので今回はこの絵を掲げるだけにする。



 展覧会では同じくミレーの「横たわる裸婦」も展示されていて、興味深かった。

 その他興味を惹いた作品は多数あり、もう書ききれないのでここらへんで終了。

   


敬老の日

2014年09月15日 22時18分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
   

 本日は「退職者連合(日本高齢・退職者団体連合)」主催の「2014全国高齢者集会」ということで、日比谷公会堂まで出向いた。
 腰痛がまだ心配なので、痛み止めを2回分と折り畳み式の杖を持参したが、さいわいそれらのお世話になることも無かった。
 天気も曇り空で、日比谷公会堂から東京駅までのデモも暑すぎることなく楽に歩いた。

 終了後東京駅で軽くビールを飲んで帰ってきた。東京駅は夕方とても人が多かった。長距離バスの出発する南口だけでなく、中央口も北口も人が溢れかえっていた。3連休が終わりそれぞれの土地に帰る人々であろうか。東京駅周辺の居酒屋も列車やバスの時間待ちの若い人で盛況であった。
 明日は午後一番で退職者会の打ち合わせ会議、その後18時30分から2代目高橋竹山のライブが渋谷で行われる。楽しみである。

「オルセー美術館展」(国立新美術館) その3

2014年09月15日 09時20分06秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 エドゥアール・マネの「ロシュフォールの逃亡」(1881)は49歳の作品。亡くなったのが51歳という若さだから、晩年の作品となってしまう。
 ナポレオンの体制に抵抗したロシュフォールが囚われの地から逃亡するようすとのこと。画面のほとんどを占める荒いタッチの暗い波が逃亡者の不安を象徴している。白い飛沫も明るさやオールを漕ぐ力強さを表してはいない。白は星や月の明かりでも、そして希望でもなさそうである。
 上方に微かに点のような黒い塊であらわされた大型船が唯一の救いの象徴かもしれない。病気と苦闘するマネの晩年の心境をこの絵から読み解くことも鑑賞者には許されている
 人の表情は判読できない。しかし私はこのように風景画であっても人の営みや活動の痕跡、人の意識がほのかに漂う風景画が好みである。人がこれみよがしに前面に出て何かを語るような作品よりも、多くのことを語ってくれるような気がする。昨日取り上げた「かささぎ」についても人の営みの痕跡を見ることができた。大仰なドラマ仕立ての歴史画というのは馴染めないが、市民社会に埋もれている人々の生きた痕跡が伝わる風景画は好きである。
 夏目漱石が坂本繁二郎の「うすれ日」という牛の絵を「此画には奥行がある‥。其奥行は凡て此一疋の牛の、寂寞として野原の中に立っている態度からでるのである。牛は沈んでいる。もっと鋭く云えば、何か考えている。「うすれ日」の前に佇んで、少時此変な牛を眺めていると、自分もいつか此動物に釣り込まれる。さうして考えたくなる。」と評した。このような鑑賞の仕方が私の理想である。人の営みの痕跡を匂わせて、このように考えさせてくれる契機となる絵が好みである。
 この絵の題名から「ロシュフォール」という固有名詞を取り除いても、また「逃亡」という具体的な行為を示す言葉が無くとも、この絵の価値は変わらないと思う。単に「船出」でも「航跡」でも充分に先ほどのような鑑賞ができる。



 同じくマネの「アスパラガス」(1880)は、マネの晩年の人柄を示すエピソードが添えられている。真偽はともかく、「一束のアスパラガスを描いた絵を800フランで売却したところ買い主が1000フラン送ってきたので、「1本抜け落ちていた」との一言を添えて本作を贈った」という。肩の力を抜いた小さな作品だが好ましい。
 それを知ってこの絵を見ると、広い台の端に不安定に置かれた脆い野菜が、取り残された存在の不安と孤独を表していないか。微笑ましいエビソードだけでなく晩年の病身の画家の孤独と不安の表現と見ることもできる。何も置かれていない広い台が多くを語ってくれていないか。エピソードは絵を見る目をあらかじめ限定してしまうので、私は好まないが、この程度のものはそれなりに楽しい。



 ジャン=レオン・ジェロームの「エルサレム」(1867)。43歳でアカデミズムの画家として栄華の絶頂期の作品とのことである。表題から去りゆく兵隊と遠景の町並、黒い雲を見て、ゴルゴダの丘を去るローマ軍とまでは類推できた。講師の三沢恵子さんから「右手の影に注目」といわれて目から鱗が落ちた。本当に驚いた。3名の磔刑図である。当然真ん中がキリスト。
 磔刑の影を強調するためだろう、右からの太陽の光線が異様に明るい。聖書では雷が轟き暗く曇ったことになっているが、直前の一瞬の光を持ってくることでドラマを仕立てた。右上には不気味に赤く輝く月も星も描かれている。人類史2000年でその名のもとに、どのくらいの人を殺戮したかわからないほどの殺戮に繋がった1人の死、を鮮やかに浮かび上がらせている。歴史画として、一瞬の時が永遠につながるマジックと、2000年の歴史を思い出させてくれる。サロンの絵画も新しい視点、あたらしい構図に挑戦をしていたことを窺わせる絵と理解している。
 そして展覧会でこの絵を見て描かれた年が1867年というのがまた印象に残った。明治維新前年である。アカデミズムの絵ということであれば当時の日本では狩野派の絵ということになる。狩野派はこのようなダイナミズムを発揮できていたのだろうか。日本の絵画のその後の展開からは狩野派の内部の革新的エネルギーの発露を私は知らない。



 セザンヌは私の好きな画家の1人である。「首吊りの家、オーヴェール=シュル=オワーズ」(1873)を含め7点も見ることができた。
 セザンヌについてはもっと勉強してから書きたいと思っている。私はセザンヌが好きな理由が緑の使い方である。特に木々の葉の描写に惹かれる。
 大体が濃い緑と淡い緑の2色を使って、たいていの木々を描き分ける。色と同時に筆致が木々の勢いをうまく表していると思う。同時に出展している「ポプラ」など緑1色の絵といっていいかもしれないが、心に残る作品である。
 このころセザンヌはカミーユ・ピサロとともに描き、この絵は第1回印象派展に出品した初期の代表作である。
 この絵は緑の木はなく、草が緑であるが、緑が道の奥行き感を表している。左側の道は奥に行くにしたがい緑色が明るく背丈が高くなり、右側の道は奥に行くにしたがい暗い緑となり緑の色の部分の幅が狭くなる。見方によっては不思議な遠近感である。
 印象派とは分かれポスト印象派と呼ばれたり、キュビズムへ大きな影響を与える方向がなんとなく予感できる絵だと思う。


「オルセー美術館展」(国立新美術館) その2

2014年09月14日 23時39分53秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 私が「オルセー美術館展」でもっとも印象に残った作品は、クロード・モネの「かささぎ」(1868-69)である。
 シスレーの2点の雪の絵もいいがモネの雪の方が私は気に入った。
 特に遠方まで広がる景色の奥行感、カササギの影、生け垣の隙間の向こう側にもある雪の描写、明るい陽射しの描写、生垣と樹木の影、よくよく計算された構図に惹かれた。
 この絵を描いたモネは若干28~29歳、私はこの歳でこれほど人を惹きつける作品を生み出した画家に惹かれた。
 かささぎの止まっている木の枠は、手前の農園と向こう側の道を仕切る門であろう。かささぎが人工物である門に止まっている。しかし仕切られている門の手前と向こう側には人の歩いたような跡がある。早朝に、すでに人が一仕事を終えた痕跡がこの絵にはある。人はいない風景画であるが、人の労働や活動の痕跡を何気なく描き込むことで、動きが暗示されていないだろうか。何かしらのドラマも潜んでいるとの暗示を感じる。
 「自然に対する観察、自然の受容は西洋にはない日本独特の文化」などという言葉を聴く。確かにユーラシア大陸の西のヨーロッパと東の涯の日本で、自然や風景への接し方や表現の仕方に文化的に大きな差はあるだろう。しかしそれをどう表現するかという熱意や努力は変わらない。この作品は1868~69年に作られている。日本でいえばちょうど明治維新の年である。
 19世紀中ごろのヨーロッパでは自然描写ばかりか絵画の表現方法に対して大きな革新期を迎えていた。そこにジャポニズムの影響が加わり、大きく飛躍したといわれる。しかし表現そのもの革新に対する真摯な姿勢が無ければ外からの影響など小さいものである。当時の日本で絵画表現に携わろうとした人々はこのヨーロッパの大きなエネルギーを身をもって感じたのであろう。日本画、西洋画を問わず新しい表現に対するどん欲な姿勢がそのことを物語っている。
 しかし近代化の進展とともに「アジアの盟主」などという錯覚がはびこり他国の文化に対する真摯な姿勢が後退した。果ては「日本至上主義」に陥りアジアだけでなく全世界の他の文化の否定に成り下がるまでわずか70年。そして現在、敗戦後もいつの間にか70年、他者の文化に対する姿勢をもう一度謙虚に見直さなくてはならなっている。



 この「ヴィーナスの誕生」(1863)は印象派の対極のアカデミズムの大家アレクサンドル・カバネル40歳の作品である。1863年のサロンでは審査員であるカバネルなどにより、エドゥアール・マネの「草上の昼食」、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの「白の少女」などが落選し物議を醸している。エミール・ゾラにより小説「制作」にも仕立てられているとのこと。そしてこの作品はナポレオン3世お買い上げの絵である。今回の展覧会は、印象派の対極にある作品も同時に鑑賞できる。とても刺激的な企画である。
 この絵、不思議な絵である。波と人体がまるで無関係である。波に人体が寝そべっているのかと思うが、重量感がまったくない。波はベッドのようには人体を支えていない。人体は浮遊しているのである。わずかに髪の毛の先だけが海水に浸っているだけである。人体と違い髪の毛は重力の作用を受けているようだが、その実白い波の作用を受けていない。また笛を吹くキューピットなどどちらかというと見る人を揶揄しているように見える。しかも扇情的なポーズと微かに開いている薄目はあまりにリアルである。自然である波の表現はアカデミズムの権化のような表現ある。そして理想的な裸体を神話や歴史、聖書の一コマに仮託して描くという旧来の伝統の上にたっているようだ。
 だが、私はこの絵をみるととても現代のアバンギャルドかつシュールな絵に見えてしようがない。「ヴィーナスの誕生」といえばボッティチェリの貝殻に乗った表現がひとつの規範であるらしいが、ここでは女性の生殖器の暗喩である貝殻は姿を消している。
 私はこの波の上に浮遊する女性像を見た時、ダリの「目を覚ます1秒前、ザクロの実のまわりを1匹の蜜蜂が飛び回ったために見た夢」という作品を思い浮かべた。この作品も横たわる裸婦は海の中の岩棚の上に浮いている。浮遊する女性というのは西洋の絵画ではダリのほかシャガールくらいしか私は知らない。しかもともにカバネルの影響とは思えない。
 貝殻が消えているという意味では当時のサロンにおいても大胆な表現だったのではないか。貝殻を媒介として海から生まれる女性は、美や母性や豊穣や性の象徴となっていたのだろうが、海と女性の裸体が直接対するというのはどのような意図があったのだろうか。
 保守派の権化のように見られる画家は、意外と表現の方法については大胆な発想を持っていたのかもしれない。


 マネの「ロシュフォールの逃亡」も記事を書いたのだが、途中で画面から消失してしまって書き直しにまだ時間がかかる。この2点でとりあえず記事をアップする。どうも最初に書いた時の勢いが文章から消えてしまったようで寂しい。


   

消えてしまった「「オルセー美術館展」その2」

2014年09月14日 15時44分17秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 11時から3時間かけて書き綴っていた「「オルセー美術館展」その2」がつい先ほど、突然消えてしまった。ソフトエラーの表示と同時にまったく一太郎が動かなくなり、途中までのバックアップを取る暇もなく画面から消失してしまった。どこにも記憶されていない。
 再起動したら一太郎自体は起動したが、書き始める前の状態にしか復元できない。茫然としている。
 モネの「かささぎ」とカバネルの「ヴィーナスの誕生」、マネの「ロシュフォールの逃亡」の三点の印象をA4に3枚書き綴って、更新する直前の出来事であった。

 この痛手から立ち直って書き直しをかけるのは何時間後であろうか?

雷が鳴り始めた

2014年09月13日 21時06分00秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 遠くから雷の音が聞こえ始めた。これだけいい陽気であったのに、といぶかしい。次第に近づいてくる。音が大きくなっている。雷は何事もなかったように頭上を通り過ぎてもらいたいものである。大雨・洪水・雷注意報が出ていた。

 明日は午前中は団地の管理組合の諮問機関の会議が予定されている。午後は退職者会のイベントが都内で行われるが、集合がお昼前なので参加は他の方にお願いした。明後日の連合主催の全国高齢者集会は私が参加する予定になっている。

 腰の痛みは午後からは大分良くなったようだ。杖をつかずに先ほどは家から歩いて10分ほどの寿司屋に行ってきた。3000円未満であったが、久しぶりに贅沢をした気分になった。カマスの一夜干しを焼いたものがとても美味しかった。浦霞も1合、美味しかった。


「オルセー美術館展」(国立新美術館) その1

2014年09月13日 16時54分42秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
         

 国立新美術館にて「オルセー美術館展-印象派の誕生-描くことの自由」が開催されている。期間は10月20日(月)まで。

 チラシの表に使われている絵はマネの「笛を吹く少年」(1866)。中学校の美術の教科書以来見たことが幾度かはある。実物は無論見ていない。最近までこの絵のどこがそれまでの絵画と違い斬新なのか理解できなかった。「色面を並置したようかのような平面的な描き方は、浮世絵からも着想を得た‥」という解説がようやくわかりかけてきた(と思う)。
 目の前にいる人物を神話や歴史上の人物に仮託したりせずに、また固有名詞として描くのではないことが主流となり、また技法も構図も斬新なものであったことがわかりかけてきた。浮世絵の影響ということも少しだけ理解できるようになってきた。
 黒い上着など腕の部分と胸の部分の重なりがボタンが無ければ遠近がわからない。たぶんアカデミックな描き方では黒にグラデーションを付けたり光を添えたりして遠近を付けたであろうことも想像できる。肩に掛けた冬や白の襷につけた黒い輪郭線、顔の黒い輪郭線、ズボンの黒いストライプの模様の区別が何となく曖昧である。これが色面構成の妙なのであろう。そうやってみると従来の絵とは違いそうだと思えてきた。しかし描かれた少年は実にリアルである。これも面白い。
 この展覧会ではミレーやコローのバルビゾン派の絵と、印象派が対抗したサロンに拠ったカバネルやブクローなどのアカデミズムの画家も展示され、比較することができるようになっている。

   

 展示コーナーは9つに分かれ、初めは「第1章 マネ、新しい絵画」と題したマネの初期の作品からはじまり、「第2章 レアリスムの諸相」でクールベ、ミレー、コローにはじまり印象派のカイユボットに繋がる流れが展示されている。

 「第3章 歴史画」では歴史画の範囲が同時代にひろがり、ヨーロッパから世界へと対象地域も広がってアカデミズム自体も題材だけでなく技法も多様化していったことを暗示する展示になっている。

 「第4章 裸体」では従来の理想化された裸体表現から印象派によって現実性、あるいはあらたな人体表現への挑戦として扱われたことがわかる。

 「第5章 印象派の風景」では印象派の画家たちが現実の風景といかに格闘したかがわかるような展示をめざしていた。このコーナーは私には今回の見どころのひとつであった。何といってもモネの「かささぎ」を実際に目にしたのは嬉しかった。

 「第6章 静物」は印象派で静物画の役割の大きさを示し、「第7章 肖像」では肖像画の描く対象の変化(王侯貴族→都市ブルジョアジー→家族の集団画→周囲の人々)を示している。そして「第8章 近代生活」では、産業革命、都市膨張・改造、新しい都市生活といった近代にこだわった印象派の指向を展示している。

 最後の部屋「第9章 円熟期のマネ」のコーナーは印象派に大きな影響を与えたマネの円熟期から晩年のマネの作品6点を展示。最後の第8回印象派展は1886年だが、1882年に亡くなったマネは印象派展には出品していないものの印象派の象徴的な画家である。マネの最晩年の作品に接することのできる印象深いコーナーといえる。私は初めて「ロシュフォールの逃亡」と「ガラスの花瓶の花」「アスパラガス」を見た。存在は聞いたことがあるが初めて目にすることができた。

 私は今回それぞれの絵の制作年代に注目して見て回った。いづれも明治維新前後の時代と重なる。
 横浜開港の年、明治維新のときの時代を振り返りながら見ることで、時代を感じようと思った。同時に明治以降の日本の西洋絵画を志した人々が接した西洋絵画が、実に西洋絵画の革新期の直後にそれを吸収していたことがあらためて実感した。同時に江戸後期からの絵画の歴史との接点についても考えさせられた。

 今回の展示については、神奈川大学のエクステンション講座で、

一昨年から一年続いた「ヨーロッパの芸術を旅する」と「続・ヨーロッパの芸術を旅する」を担当された伊坂青司教授、

「アート鑑賞を楽しむ西洋美術基礎」と「旬なアートで楽しむ美術鑑賞西洋秘術編」を半年担当してくれたアートナビゲーターの三沢恵子さん、

から得た知識がとても役に立った。感謝である。

 間違った理解に基づいて間違った記述をしているかもしれないが、それは理解できていなくて、予断と偏見のかたまりである私のなせる業である。

 次回は気に入った個別の絵の私なりの感想を記したいと思う。




秋麗

2014年09月13日 12時27分56秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 今日は朝から秋らしい気持ちのいい陽気である。何といっても陽射しが柔らかい。
 ウォーキングに出かけたいところであるが、腰の痛みが昨日よりひどくなった。ベッドから起きるときも、食卓の椅子から立ち上がる時も杖が欲しい。今日一日は動くわけにはいかない。

 秋麗という季語がある。あきうらら、しゅうれい、ともに使う。秋晴れのまぶしいが夏の強さは失せた陽射しの日のことだと思う。夏の延長というよりも、冬を前にした穏やかな語感を感じる。清澄という言葉がこの言葉にピッタリの語感でもある。これは季語ではない。一方で「麗か」というのは春の季語というが私にはしっくりこない。

★秀麗やわが影塀につきあたる  木下子龍
★秋麗の産後まばゆき妻迎ふ  能村研三
★秋うらら時の止まりし都市の跡  本多一基


 妻が習い事に出かけたが、本日は夕食会があるとのこと。昼食は有り合わせで簡単に何とかなる。夕食は自分で好きなものを作るチャンスであったが、台所で中腰の作業は厳しい。有り合わせの材料で作ろうという気力が失せてしまった。

 夕方になって、腰のようすが少し良ければ上り下りのない尾根道を10分も行かないところに古くからある寿司店がある。久しぶりにそこに行ってみようかと思いついた。決して高価ではない店であることは、以前に妻と入って知っているが、一人でカウンターの寿司店に入るという贅沢は何年振りだろう。こずかいを握りしめながらドキドキして座るというのもスリルがあるかもしれない。


「むざんやな兜の下のきりぎりす」(芭蕉)

2014年09月12日 22時19分43秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 整形外科でいつもの腰の低周波治療と、痛み止めの薬と筋肉の強張りを改善する薬をもらってきた。往復1時間余、爽やかな陽射しを浴びながら普段よりは少しゆっくり歩いてきた。病院の帰りには喫茶店でコーヒータイムも。
 痛み止めなどの薬は旅行中の用心として処方してもらったが、夜になると少し痛みが増してきたので、先ほど服用した。薬としては効いているようで、痛みは薄らいだ。
 夕方帰宅してから、オルセー美術館展のチラシや解説書や絵をスキャナーで取り込む作業をしている。スキャナーの作業でたったりすわったりを幾度か繰り返しているのが腰には負担になっているのかもしれない。立つ度に左手を腰に当て、椅子の臂宛てに右手をついて腰に負担のかからないようにしている。それでも痛みが増していた。ということでまだ続けたいのだが、スキャナー作業は本日は終了。

 どの絵を選ぶかが、楽しみなのだが‥。

 最近は美術館に出かけるときは、ある一人の画家の回顧展ないしそれに近い展覧会である。その場合は画家の生涯の画風の変遷であったり、あるいは生き様について生意気にも言及してきた。今回のように「印象派」総体を俯瞰したり、同時代の作家との比較が主眼の展覧会について記述する場合、切り口が難しい。
 私なりのそれこそ予断と偏見に満ちたものでも、少しくらい気の利いたことを書きたいものである。そのヒントを見つけるのが苦労である。

 ということで、軽いぎっくり腰を理由に「オルセー美術館展」の感想はあと1日位は余分に時間がかかりそうな気配になってきた。

 月はまだ私の家のベランダからは見えない。もう少し時間がかかる。そのかわり、昨晩は実に微かにしか聞こえなかった虫の音が、今晩は少し大きくなってきた。むろん、昨日はじめて聞いたということではない。蝉の音に混じって聞こえていたものが、今は蝉の声はしなくなった。数日前から蝉はすっかり退場してしまった。
 虫の音が大きくなったといっても数匹の細い声に聞こえる。あちこちで賑やかに聴こえるという段階にはなっていない。虫の音を聴くというのはこのくらいがいい。何の虫かは詮索せずに聴いている。

★むざんやな兜の下のきりぎりす  芭蕉

 実盛の兜がまつられている小松市の多太神社を訪れてよんだ句。「きりぎりす」は当時はコオロギのことらしい。「斎藤別当実盛の遺品の兜がまつられているが、秋が深まり一匹のコオロギが実盛の霊のように鳴いている。兜の下で鳴いているようにも聞こえる。その鳴き声に実盛の声が重なる。」こななところか。
 謡曲の「実盛」に、「むざんやな」ということばがあり、それを踏まえている。

 平家方の武将として木曽義仲の軍勢と加賀の国に白髪を黒く染めて華々しく戦い、討たれる。平家物語の忘れられない一場面である。私は芭蕉の句からこの話を知り、とても印象深かかった。私の平家物語体験は「祇園精舎の鐘の声‥」ではなく、このくだりといってもいいかもしれない。また謡曲「実盛」は初めて目をとおした謡曲でもある。
 この句、実際に兜の下で虫が鳴いていたというのでは興ざめである。兜を眺めたときと、虫の音を耳にしたときは別のときである。あるいは虫の音は想像で持ってきたとも思われる。
 たぶん夜遅く、暗い蝋燭の火のもとで、昼間見た兜を思い浮かべながら苦吟している芭蕉が目に浮かぶ。芭蕉の表情にも気骨の武将の面影が重なる。

微気候、腰痛‥無関係であるが

2014年09月12日 10時32分32秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 我が家の寝室は北側にある。本日朝目が覚めてから北側の窓を開けたら心地よい涼しい風が、寝具をかけていない体を包み込むように吹き込んできた。強すぎず、弱すぎず体を少しだけ引き締めるように目覚めさせてくれた。そして開け放した南側のベランダに面した窓に向かって空気が移動していった。
 起き出して南側のベランダに出てみるとこちらは太陽が当たり、秋らしい陽射しが暖かい。
 この時期、朝は南側と北側でこんなにも気温差があるのだろうか?と感じた。どちらも体に心地よい感じであるが、陽射しのある、なしで体感がこんなにも違うものだろうか。
 真夏のあのうだるような暑さは、南側も北側も区別なく体を苛む。あれが異常なのであって、この秋の雰囲気がもともと当たり前なのだろう。
 建築関係の本を立ち読みしていた時に「微気候」という表現に出くわした。家の南と北とのほんの些細な気温差、陽射しのあるなしによる差を説明していたと思う。日本の木造家屋の構造を解説していた個所だったはずだ。記憶では、庇や縁側や廊下がこの気温差や湿度の差を利用して風を効果的に呼ぶ構造であるとのことだった。詳細はすっかり忘れてしまっている。

しかし微気候ということばの意味合いが不確かなので、先ほど今あわててネットで検索したら、定義に随分差があることが分かった。どれが正しいか、わからないので並列してみる。

「地表面から地上1.5mくらいの間の大気層(接地気層)の気候。地表面の状態や地物の影響を強く受けて,細かい気象・気候状態の差異が生じる。接地気層の中ではわずかの高さの違いで気候状態がはなはだしく変化するので,地表面に接した所の大気層の気候は一般の気象観測が行われる高さ(地上1.5m前後)の気候とはかなり異なる。ふつうは水平方向の広がりはせいぜい100m以内の現象が対象になるが,小気候の意味で使われることもある。」(世界大百科事典 第2版)

「微気候とは、洞窟やオアシスなど狭い地域の地形、またはビルなどの建造物によって作られる、周囲の「大気候」とは異なる地域である。洞窟の中は外よりも気温が低く、生物環境なども周囲とは大きく異なる。オアシスには植物が密集しており、乾燥のために植物が無い砂漠と比べて対照的である。同様に、乾燥した地域を流れる川の河畔には植物が生育する。コンクリートで覆われたビルの屋上は、その性質のために温度が高い。しかし、植物を植えるなどして温度を下げることが可能である。また、地下や公園などの気候も周囲と異なる微気候である。」(wikipedia)

「地表より100メートルくらいまで(2メートル以下のこともある)の狭い範囲の気候。 → 微気象=「地表より100メートルくらいまで(2メートル以下のこともある),水平的には数メートルから数キロメートルの範囲に起こる気象現象。地表・地形・建物・植生・農作物などの影響を受けて微細な変化を生じる。農業や生物の生活環境に大きな影響をもつ。」」(大辞林)

 地上1.5mとか、地表から100mとか随分差がある。着目する範囲により定義に差があるようだ。ひとつの建物に注目するか、区画で考えるか、地形を単位にするか、考察する対象によっても恣意的に差が生じるようである。
 気候という概念自体が地球規模を範囲とするか、大陸、半島、島等々範囲の設定で違ってくる。比較する範囲によってより下位の地域を微気候というのかもしれない。絶対的な基準を持ってきても、厳密過ぎてもかえって不便なのだろう。

 とりあえず、今の時期の南北の気温差、風の有無の差を、体感としてリアルに感じたことが私にとっては重要なことであった。


 さて、朝の洗面をしていたら突然腰に痛みが走った。ぎっくり腰の再発らしい。さいわい痛みは軽いので、ゆっくり動くならば問題はない。しかし来週は旅行である。今週も明日から病院は3連休。用心をして久しぶりにいつもの整形外科で、温めながらの低周波電気治療を受けてみようと思っている。これが腰の筋肉の炎症に本当に効いているのかはわからないが、治療後は痛みも薄らぎ気持ちがいいことは確かだ。
 秋らしい陽射しを受けてのウォーキングは、残念ながら痛みや違和感が無くなるまで控えなければならなくなった。かなりがっかりである。

月を見る

2014年09月12日 01時40分01秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日も先ほど2回に分けて月を見ていた。1度目は昨日の23時過ぎ。2度目は日付が変わって1時頃。

 1度目はまだ雲が7割くらい空を覆っていた。高層雲というのか高積雲というのか、私には区別がつかない。2度目は逆に雲が空の3割くらいに減っていた。
 1度目は雲と晴れている境目に居待月がかかっていて、次第に雲が月から離れていくところであった。現実は雲の方が動いているのだが、実際に見ていると月が動いていくように見えたり、雲が動いているように見えたりと感覚が交互に入れ替わる。その感覚の入れ替わりを楽しむのも月の鑑賞の仕方だと思う。
 月が動いているように見えるときというのは、雲が世界地図の大陸や島々に見えて月は船のように感じる。世界地図からすると船というのには縮尺割合からすると大きすぎるのだが、そこは厳密には考えない方がいい。月が陸地を離れて大海を静かに、しかし確実に航海をしていく。月の明るさが確かな航行を暗示しているようだ。

 ふと意識が転換すると、雲が月から離れたり接近したりを繰り返しているように見える。これは雲の大きさや、厚味、雲間に反射する月のあかりや雲の移動速度などにより微妙な転換が行われる。
 雲のない空間が大きいと、どちらかというと月が航海をしているように見える確率が大きいかもしれない。
この転換を幾度か経ると、そろそろ見飽きて周囲の景色にいったんは目を転じたり、部屋に入ってお茶でも飲みたくなる。今回はお風呂に入って見た。
 2度目は雲が少なくなり、雲に比べて闇の海を明るい月が滑るように動いて見えた。場面の転換はなかなか起きなかったが、傍に小さな雲のかたまりがやって来て光を画した途端に雲が動き始めた。

 この錯覚を楽しんでから、少し覚めた身体をベランダから部屋に引き入れた。とても気持ちのいい時間を過ごすことができた。

碇星

2014年09月11日 21時29分49秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 横浜の中心部では本日は雨らしい雨は降ってこなかった。しかし朝の内川崎市内や横浜市の北部方面では雨が強かったと聞いた。雨が局地的に偏る傾向が一向におさまらないようだ。これは「今年の気候の特徴」なのか、長期的な傾向なのか、今のところ判断はつかないといった方が良さそうである。

 夕方まで所用で川崎や横浜の関内を歩き回り、帰宅。

 さて本日これから、昨日のオルセー美術館展で気に入った作品のピックアップ作業から始めることにした。

 夜中過ぎにはまた月を眺める時間をもってみたい。

 俳句に「星月夜」という季語がある。秋の夜は空が澄むので星が美しい。月がすっかり細くなり新月になったころが星がもっとも美しい。これから9月24日の新月に向けて星が美しくなる予定なのだが、天候は回復するだろうか。
 またカシオペア座は和名を碇星という。wの字に見立てたのを日本では碇の形に見たという。これが秋の季語として扱われる。しかし季語として扱っていない歳時記も多くあり、季語として定着しているかどうかの判断は難しいようだ。

★豪雨止み山の裏まで星月夜  岡田日郎
★君が香やビル街に一つ秋の星  梶川祐子
★胎動を告げる瞳涼し星月夜  田中あかね
★耳鳴りのつんと抜けたり星月夜  秋山陽子
★灯台の一閃触れし秋北斗  佐々木文子
★死ぬ事の残りておりぬ星月夜  大野英美
★真向かひにカシオペア得て旅半ば  伊藤晴英


十六夜、立待月‥

2014年09月11日 12時19分31秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨晩遅くに月を眺めた。雨雲はなくなり、中・高層の雲が空全体を覆っていたが、月は雲をとおして美しかった。鮮明に見る月もいいが、雲をとおして見る月も見飽きることはない。10分ほどベランダから天頂付近の月をじっと見ていた。
 東の空では稲光りが絶え間なくしていた。音はまったく聞こえない。稲妻が見えたわけではなく、雲間に光が映るのが不気味である。夕方すさまじい雨を目にし、その音の圧力を感じたので余計不気味に思えた。

 稲光の不気味な光と、月の光が何とも相容れない矛盾した雰囲気を空に同居させている。異常な天候、気象現象は、空の景色に慣れ親しんだ人にも複雑な感慨を人に与える。

 旧暦では十五夜は今の暦の8日の晩であったが、実際の月令で満月は9日。ということで、私が昨晩見た月の暦の上では立待月。だが、月令では十六夜の月。難しくて頭が混乱してしまいそう。
 十六夜の月は漢字表記ではそのとおり旧暦の十五夜の次の夜の月のことを差す。訓というか和語では月の出が約40分から50分遅れるので出てくるのをためらっているように見るので「いざよふ」といわれた、という説明がなされている。既望ともいう。
 そしてその翌18日の晩の月を立待月という。月の出を「立って待つ」意味だという。翌日は座って月の出を待つので居待月、19日は寝て待つので、寝待月・臥待月という。

★十六夜や囁く人のうしろより  千代女
★いざよひの外に出て心つまづきぬ  三橋鷹女
★深山の風にうつろふ既望かな  飯田蛇笏
★十六夜の人魚座りは妖しかり  吉田静二
★立待や明るき星を引き連れて  岩田由美
★十七夜水禍の村を照らしけり  北須賀トシ子
★蒟蒻に箸がよくゆく居待月  加藤燕雨
★身を抜けし言葉の冷ゆる居待月  大泉信夫
★食後また何煮る妻か寝待月  本多静江



蚊に刺された

2014年09月11日 10時50分35秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日午後に多磨霊園の裏門に入った直後に、虫よけスプレーを首や腕に噴霧した。ところがお墓に着いてみると左肘が痒い。蚊にくわれた跡がひとつ。妻も同じようなところを食われていた。
 虫よけスプレーを噴霧する直前に、裏門に入った直後にくわれたらしい。しかし効き目はあるようで、蚊は傍には寄ってくるが皮膚に止まることはなかった。
 迂闊であったのは、近くにある便所に入った時。太ももをさらにひとつ食われた。スプレーをしたときズボンにはかけていなかった。薄手のジーパンの上から食われてしまった。なかなかしつこく、そして強烈な蚊である。
 墓地というのは蚊がたくさんいる。スプレー持参までは良かったのだが、もう少し早目に、そして服の上からもスプレーしなくてはいけなかった。

 午後から横浜でも雨がひどくなるらしい。友人の見舞いに川崎に出向く予定である。あまりひどくなってほしくないが‥。  

豪雨の中、多磨霊園&「オルセー美術館」展

2014年09月10日 22時53分52秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 午後から多磨霊園へ夫婦二人で墓参りに出かけた。中央線の武蔵小金井駅から多磨霊園に向かう途中に美味しいカレーの店がある。今回で3回目だと記憶している。遅いお昼をそこで食べたが、ここの店はこだわりの美味しいインド風洋風カレーである。しかし、何しろボリュームがすごい。2人とも「控えめ」を注文したけれど、お腹ははちきれそうに満腹。
 墓参りが終わった時点で雨が降り始めた。やみそうもないばかりかだんだんひどくなるので、はじめて霊園内のバス停から中央線武蔵小金井駅までバスで戻った。次第に雨がひどくなり、新宿駅まで駅で扉が開く度にすさまじい雨音が聞こえてきた。そしてほとんど視界がない。高架の線路敷きから町中の建物がほとんど見えなかった。
 多磨霊園の表門経由で帰っていたら、京王線を理由することになるが、そのコースを利用しなくてよかった。京王線はこの豪雨で大幅に遅れが出ていたらしい。JR中央線を利用して助かったようだ。



 新宿駅から大江戸線で六本木駅経由で国立新美術館へ。17時に入場してちょうど1時間かかって一巡。本当はもう1時間かけてもう一巡じっくりと見たいところ。それはこの次に訪れたときにしよう。



 私のもっとも気に入った作品は、クロード・モネの「かささぎ」。シスレーの2点の雪の絵もあったが、こちらの方が私は気に入っている。図録は2800円だったので、ミニ図録1300円を購入。解説が無いのと図が小さいのが難点だか、財布には優しい。このような試みは大いに歓迎である。
 なお、展覧会の感想は別途アップ予定。

 日比谷線を利用して東横線経由で横浜にもどったが、横浜に着く直前にやはり豪雨が横浜を通過したらしい。さいわいその雨が終わってから横浜についた。東京の東部では床上浸水などの被害も出たとのニュースがあった。
 これから明日にかけても降るようだ。被害が出ないことを祈るしかない。