本日はヨコハマトリエンナーレ2014の会場のひとつである新港ピアに行った。雨が小降りであったためか、訪れている人はそれほど多くは無かった。予想したよりは多かったが‥。特にアジア諸国からと思われる人々が3割はいたように思う。
会場に入ると第11室「忘却の海に漂う」から見ることになる。「忘却の海」はヨコハマトリエンナーレ2014のキーワードであり、最後のゾーンでこのメッセージが色濃く反映した諸作品が展示されている。
まず目を惹くのが煌びやかに飾り立てられた大きなトレーラー。作者は、やなぎさわみわ。
熊野・伊勢・恐山・皇居と聖地巡礼する老婆7人の物語「日輪の翼」(原作=中上健次)の移動公演用の舞台とのこと。「大地と海の中を潜航し、アジアと日本の思いもかけぬ架け橋とかることだろう」という。
次の部屋は土田ヒロミのモノクロの写真が整然と並ぶ。「ヒロシマ・モニュメント」という被爆地広島の1979、1993、2005年という時点での3か所の定点観測の作品。
そして「ヒロシマ1945‐1979/2005」。この作品は「原爆の子」(1951)に被爆体験を寄せた子供たちの、1979年と2005年の現在を撮影した継続中のポートレート。途中で亡くなった方もあり、原爆の「今」が迫ってくる。
素顔を過去も今も晒す人、背を向ける人、撮影を拒否する人、笑い顔、鋭い射るようなまなざしをこちらに向ける人‥。この部屋には多くの人が静かに見入っている。誰もが自然に息をのみ、静かになる力を感じる作品群である。モノクロの力も感じる。
ヤン・ヴォーの作品、初めは何のオブジェがわからなかった。題名は「我ら人民は」。アメリカを象徴する自由の女神像の原寸大の薄い金属の型を250に及ぶパーツに切り分けた一部とのこと。アメリカを解体したい欲求とも受け取れるようで、解説には「ベトナム人としての過激なアメリカ批判も垣間見える」とある。ベトナム戦争終了の1975年に生まれ、1979年に北欧に脱出した作者のアメリカを筆頭とする「西洋社会」への幻滅と告発という風な解釈でいいのだろうか。解説はすこし薄っぺらな解釈にも感じるが‥。否定する材料は私には持ち合わせがない。
次に私の目を惹いたのは、キム・ヨンイクの作品。私は写真中央の作品単体としては特に印象には残らなかったのだが、左右のハングルによる文章と一体として見た時に不思議な魅力を感じた。ハングルと漢字の違いがあるが、中国の山水画に賛を書いたり、あるいは画家が詩と絵を描いた作品に見えた。ハングルという文字のもつ美しい並びを再認識した。ハングルという文字が漢字に取って代わることで、朝鮮半島と中国、日本の意思疎通に媒介項が増え、朝鮮半島の利用者以外には不思議がられるが、すっかり半島で定着している。その理由の一端を直感的に納得したような気分になった。
アラビア文字の美しいデザイン化とは違った整然とした美しさというのだろうか。書かれた文章について妻に聞くと「芸術とは‥」という硬い文章で理解できなかったといっていたが、読解できなくとも作品に美しいバランス感覚を感じた。
隣りに大竹伸朗の巨大な作品「網膜屋/記憶濾過装置」(2014)。第10室の最初に見た移動舞台車と対をなすように車輪と駆動装置らしい水蒸気を出す装置がついている。中はさまざまな写真やらポスターやら何やらが明るい室内装飾のように雑然と配されている。解説では「「忘却の海」に漕ぎ出すためのボート=本であるといえよう」と記載されている。そう言われれば、記憶の小屋というイメージよりも巨大な本に詰め込まれた記憶ともとらえられそうである。しかし得体のしれないことは確かだ。
最後の第10室は、「福岡アジア美術トリエンナーレ」の過去の諸作品を展示しているとのこと。アジアの美術をどのような視点でとらえるか、というトリエンナーレ企画者からの挑発的な問いかけのコーナーということなのだろうか。回答を提出できる能力はないが、感想だけは述べることができる。
一番惹かれたのは、キム・ソンヨンの「不可視の海」という映像作品。釜山と福岡の間(というよりは多分、アジアと日本の間)を隔てる海、それも夜にその荒れた海をわたる海鳥を映した映像である。深夜なので荒れた粒子で映し出される海鳥の白と荒れた海の波がしらの白が美しい。海鳥の飛翔は波にさらわれそうだが懸命にわたっている。
海鳥にとっては国境など知ったことではない。そして太古の過去から人々の文化と意識と人々は海を超えて自由に往来してきた。それが人為的な国境によって危険な障壁が作られた、というのはかなり明快すぎる思考ではあるが、そのようなことの象徴なのであろう。メッセージとしては明快過ぎるが、それがいいのかもしれない。同時に半島の言語に比して、日本の「言語」の特異性・孤立性がどうして獲得されたのかも不思議ではある。
またディン・キュー・レの作品は、CGを駆使した映像作品。ベトナム戦争でのサイゴン陥落後ベトナムから脱出する米軍ヘリコプターが燃料不足で次々海に落下する光景を延々と映し出す。「国家間の対立も、歴史の勝者も敗者もすべての見込み、時空を超えて広がる海は「忘却の海」として、キム・ソンヨンの海へと回帰する」と解説してある。
第10室のキム・ソンヨンの小さな映像作品が私には美しい作品として一番惹かれた。
アジア、ことに東・東南アジアの芸術の今、というよりは人々の意識の今をとらえようという指向を強く感じた第10室・第11室である。
これはとても重要な問題意識であることは十分わかるつもりである。このようなメッセージ性を抜きにしてアジアの芸術の今を語ることは難しいと思う。しかしその反面、こんなにもメッセージ性の強い芸術とは何か、という思いも同時に頭をもたげて来る。さらに「解説」を抜きにしては鑑賞が出来ない、という地平にも繰り返しになるが私は疑問を持っている。文字による補足、言語表現による補足が無いと鑑賞できない、作品の流通する範囲がごく限られた意識の共有者に過ぎなくなるように思う。ますます現代アートは先鋭化と孤立化、普遍性の喪失に向かっていないだろうか。出口は無いのだろうか。こんな感想は私だけなのだろうか。いつもいつもこの疑問が湧いてくる。
言語とのコラボレーションによる芸術作品を否定しているのではない。オペラにしろ演劇にしろ、書にしろ存在価値はある。しかし言語と他の表現との対等の相互作用ではなく、言語の補足を必要とする表現というのは表現として未熟あるいは自立していないのではないか。こんな疑問を抱く作品もやはりある。
私の現代アートに対する親和性と疑問とはいつも同時に頭の中を駆け巡る。