二代目高橋竹山「サラヴァ東京」定期演奏会、第3回リサイタル「海をわたる女唄シリーズ(その2)」を聴いてきた。
前回6月11日に続いての2回目の参加であった。
前回はヴァイオリンという楽器との比較、そして土俗という言葉を手繰り寄せながらかなり飛躍した感想を書いた。
第一部でびっくりしたのは津軽三味線単独での演奏と、ピアノを伴った演奏が、何のわだかまりもなく、スムーズに移行することである。伝統的な弾き語りや演奏と、ピアノを交えた演奏が違和感なく同じ空間に溶け込んでいく。何とも不思議な時を過ごしたと感じた。
それは「三味線よされ」が始まった途端に感じたことである。
「おれん口説(くどき)」とアイルランド伝承「リールの子どもたち」とが時空を超えて響き合わせようという試み、これはとても魅力のあるものである。これがさらにどのように変容していくのか、楽しみである。
大野光子さんとのトークでは前回よりも対話がうまくかみ合っていた。一部を除いて。ただしこれは解説者と演奏者のスタンスの違いだから、いつも聴衆の期待する受け答えになるとは限らないので、やむを得ないとは思うが‥。
前回に続き、アイルランドの詩人ヌーラ・ニー・ゴーノルの詩に基づくピアノと津軽三味線の演奏であるが、最初にケルト語での朗読があったのは嬉しかった。ケルト語の響きがどのようなものか、興味があった。「みんなが言った」では私が今ひとつ理解できなかったのは、「噂話の「暴力」を、言葉の繰り返しによって身を守る「魔力」に帰る」という転移のところ。この転移のところが飲み込めなかった。次回もう一度注目をして聞いてみたいものである。
前回に続いて「ファラオの娘」、このセカンド・バージョンは素晴らしかった。地の底から立ちあがってくるような迫力を感じた。言葉に説得力がある。言葉の説得力というのは、論理の構築ではない。一語一語の持つ力の複合作用によって意味が生命と響き合う瞬間をどう同定するかだと思っている。
同時に長身の二代目高橋竹山の容姿が舞台からひときわ伸び上がったように大きく見えた。声は出し切れば体は萎む、しかし発した言葉が力を持っているときには体はひとまわり大きく見える時がある。これは洋楽器でも声楽でも、能でも、同じだ。多分他の舞台演劇でも同じだと思う。人を動かす声というのはこういうものなのだろう。
儚い可能性しかない、奇跡を願うしかない祈りが現実味を帯びるのはどのような声が祈る人から発せられるかにかかっている。声による祈り・希望の実現、この古代以来の言霊の世界を引き寄せる芸ということを思い描いた。
ユーラシア大陸の東のはずれの列島にある小さな地域に根ざした津軽三味線と、ケルト語というユーラシア大陸の西のはずれの島の限られた地域の言語、これらが同時にその言語と音響の世界で、世界性を獲得したらどのような響き合いをするのか、面白い試みである。この試みは刺激的である。どのように変容していくか、注目をしていきたい。