Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

そろそろ就寝しないと‥

2014年09月17日 23時28分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日は朝6時前の出発。山に行くとき以外、こんなに朝早く起きることなどなくなっているので、辛そうである。
 その分早く眠ればいいのだか、そう簡単には眠れない。せめて24時前には就寝予定。
 小さいときに「朝早いから、早めに寝なさい」といわれても寝付けなくて怒られた。だから自分の子供には添い寝して、寝なくてもいいから布団に静かに横になることを指せていた。

韓国訪問の準備

2014年09月17日 15時05分01秒 | 山行・旅行・散策
 本日は昨晩の二代目高橋竹山のライブの感想を仕上げることと、明日から3泊4日の韓国訪問に向けて訪問地とホテルの地図を印刷することで午前中を費やした。
 訪問先の天候は良いようだ。気温も朝晩を除いてほとんど変わらない。最低気温は少し低めのようだ。ただし湿度がかなり高い。蒸し暑いのかもしれない。

 これから荷造り。といっても特に荷物が多いわけでもないし、お土産を買いあさるつもりもない。いつもお土産を買わないので、パック旅行の最終日は添乗員やガイドに申し訳ないと思ってしまう。
 20リットルのリュックがスカスカである。体積の半分は着替えが占める。

 訪れるところは大体博物館や美術館。他の観光客と重なるところは歴史的建造物だが、意外とマイナーなところを回ることが多い。韓国は各都市に国立博物館があり、充実している。
 今回はパック旅行ではない。往復の飛行機のチケットは旅行会社で手配してもらったが、鉄道・バス・ホテルの手配は妻が独自で手配した。どうなることやら。


さて、紹介された展覧会がある。上野の森美術館の「ボストン美術館 浮世絵名品展 北斎」展。9月13日~11月9日まで。普段展示されないで収蔵されているので、色あせが少なく、当時のような鮮やかな色が堪能できるとのこと。
 北斎は是非見たいと思っている。この間、岩波新書で「北斎」(大久保純一)を読んだばかり。
 国立近代美術館の「菱田春草展」(9/23~11/3)も訪れたい。

二代目高橋竹山定期演奏会

2014年09月17日 10時23分45秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 二代目高橋竹山「サラヴァ東京」定期演奏会、第3回リサイタル「海をわたる女唄シリーズ(その2)」を聴いてきた。
 前回6月11日に続いての2回目の参加であった。
前回はヴァイオリンという楽器との比較、そして土俗という言葉を手繰り寄せながらかなり飛躍した感想を書いた。

 第一部でびっくりしたのは津軽三味線単独での演奏と、ピアノを伴った演奏が、何のわだかまりもなく、スムーズに移行することである。伝統的な弾き語りや演奏と、ピアノを交えた演奏が違和感なく同じ空間に溶け込んでいく。何とも不思議な時を過ごしたと感じた。
 それは「三味線よされ」が始まった途端に感じたことである。



 「おれん口説(くどき)」とアイルランド伝承「リールの子どもたち」とが時空を超えて響き合わせようという試み、これはとても魅力のあるものである。これがさらにどのように変容していくのか、楽しみである。

 大野光子さんとのトークでは前回よりも対話がうまくかみ合っていた。一部を除いて。ただしこれは解説者と演奏者のスタンスの違いだから、いつも聴衆の期待する受け答えになるとは限らないので、やむを得ないとは思うが‥。

 前回に続き、アイルランドの詩人ヌーラ・ニー・ゴーノルの詩に基づくピアノと津軽三味線の演奏であるが、最初にケルト語での朗読があったのは嬉しかった。ケルト語の響きがどのようなものか、興味があった。「みんなが言った」では私が今ひとつ理解できなかったのは、「噂話の「暴力」を、言葉の繰り返しによって身を守る「魔力」に帰る」という転移のところ。この転移のところが飲み込めなかった。次回もう一度注目をして聞いてみたいものである。



 前回に続いて「ファラオの娘」、このセカンド・バージョンは素晴らしかった。地の底から立ちあがってくるような迫力を感じた。言葉に説得力がある。言葉の説得力というのは、論理の構築ではない。一語一語の持つ力の複合作用によって意味が生命と響き合う瞬間をどう同定するかだと思っている。
 同時に長身の二代目高橋竹山の容姿が舞台からひときわ伸び上がったように大きく見えた。声は出し切れば体は萎む、しかし発した言葉が力を持っているときには体はひとまわり大きく見える時がある。これは洋楽器でも声楽でも、能でも、同じだ。多分他の舞台演劇でも同じだと思う。人を動かす声というのはこういうものなのだろう。
 儚い可能性しかない、奇跡を願うしかない祈りが現実味を帯びるのはどのような声が祈る人から発せられるかにかかっている。声による祈り・希望の実現、この古代以来の言霊の世界を引き寄せる芸ということを思い描いた。

 ユーラシア大陸の東のはずれの列島にある小さな地域に根ざした津軽三味線と、ケルト語というユーラシア大陸の西のはずれの島の限られた地域の言語、これらが同時にその言語と音響の世界で、世界性を獲得したらどのような響き合いをするのか、面白い試みである。この試みは刺激的である。どのように変容していくか、注目をしていきたい。