私が「オルセー美術館展」でもっとも印象に残った作品は、クロード・モネの「かささぎ」(1868-69)である。
シスレーの2点の雪の絵もいいがモネの雪の方が私は気に入った。
特に遠方まで広がる景色の奥行感、カササギの影、生け垣の隙間の向こう側にもある雪の描写、明るい陽射しの描写、生垣と樹木の影、よくよく計算された構図に惹かれた。
この絵を描いたモネは若干28~29歳、私はこの歳でこれほど人を惹きつける作品を生み出した画家に惹かれた。
かささぎの止まっている木の枠は、手前の農園と向こう側の道を仕切る門であろう。かささぎが人工物である門に止まっている。しかし仕切られている門の手前と向こう側には人の歩いたような跡がある。早朝に、すでに人が一仕事を終えた痕跡がこの絵にはある。人はいない風景画であるが、人の労働や活動の痕跡を何気なく描き込むことで、動きが暗示されていないだろうか。何かしらのドラマも潜んでいるとの暗示を感じる。
「自然に対する観察、自然の受容は西洋にはない日本独特の文化」などという言葉を聴く。確かにユーラシア大陸の西のヨーロッパと東の涯の日本で、自然や風景への接し方や表現の仕方に文化的に大きな差はあるだろう。しかしそれをどう表現するかという熱意や努力は変わらない。この作品は1868~69年に作られている。日本でいえばちょうど明治維新の年である。
19世紀中ごろのヨーロッパでは自然描写ばかりか絵画の表現方法に対して大きな革新期を迎えていた。そこにジャポニズムの影響が加わり、大きく飛躍したといわれる。しかし表現そのもの革新に対する真摯な姿勢が無ければ外からの影響など小さいものである。当時の日本で絵画表現に携わろうとした人々はこのヨーロッパの大きなエネルギーを身をもって感じたのであろう。日本画、西洋画を問わず新しい表現に対するどん欲な姿勢がそのことを物語っている。
しかし近代化の進展とともに「アジアの盟主」などという錯覚がはびこり他国の文化に対する真摯な姿勢が後退した。果ては「日本至上主義」に陥りアジアだけでなく全世界の他の文化の否定に成り下がるまでわずか70年。そして現在、敗戦後もいつの間にか70年、他者の文化に対する姿勢をもう一度謙虚に見直さなくてはならなっている。
この「ヴィーナスの誕生」(1863)は印象派の対極のアカデミズムの大家アレクサンドル・カバネル40歳の作品である。1863年のサロンでは審査員であるカバネルなどにより、エドゥアール・マネの「草上の昼食」、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの「白の少女」などが落選し物議を醸している。エミール・ゾラにより小説「制作」にも仕立てられているとのこと。そしてこの作品はナポレオン3世お買い上げの絵である。今回の展覧会は、印象派の対極にある作品も同時に鑑賞できる。とても刺激的な企画である。
この絵、不思議な絵である。波と人体がまるで無関係である。波に人体が寝そべっているのかと思うが、重量感がまったくない。波はベッドのようには人体を支えていない。人体は浮遊しているのである。わずかに髪の毛の先だけが海水に浸っているだけである。人体と違い髪の毛は重力の作用を受けているようだが、その実白い波の作用を受けていない。また笛を吹くキューピットなどどちらかというと見る人を揶揄しているように見える。しかも扇情的なポーズと微かに開いている薄目はあまりにリアルである。自然である波の表現はアカデミズムの権化のような表現ある。そして理想的な裸体を神話や歴史、聖書の一コマに仮託して描くという旧来の伝統の上にたっているようだ。
だが、私はこの絵をみるととても現代のアバンギャルドかつシュールな絵に見えてしようがない。「ヴィーナスの誕生」といえばボッティチェリの貝殻に乗った表現がひとつの規範であるらしいが、ここでは女性の生殖器の暗喩である貝殻は姿を消している。
私はこの波の上に浮遊する女性像を見た時、ダリの「目を覚ます1秒前、ザクロの実のまわりを1匹の蜜蜂が飛び回ったために見た夢」という作品を思い浮かべた。この作品も横たわる裸婦は海の中の岩棚の上に浮いている。浮遊する女性というのは西洋の絵画ではダリのほかシャガールくらいしか私は知らない。しかもともにカバネルの影響とは思えない。
貝殻が消えているという意味では当時のサロンにおいても大胆な表現だったのではないか。貝殻を媒介として海から生まれる女性は、美や母性や豊穣や性の象徴となっていたのだろうが、海と女性の裸体が直接対するというのはどのような意図があったのだろうか。
保守派の権化のように見られる画家は、意外と表現の方法については大胆な発想を持っていたのかもしれない。
マネの「ロシュフォールの逃亡」も記事を書いたのだが、途中で画面から消失してしまって書き直しにまだ時間がかかる。この2点でとりあえず記事をアップする。どうも最初に書いた時の勢いが文章から消えてしまったようで寂しい。