国立新美術館にて「オルセー美術館展-印象派の誕生-描くことの自由」が開催されている。期間は10月20日(月)まで。
チラシの表に使われている絵はマネの「笛を吹く少年」(1866)。中学校の美術の教科書以来見たことが幾度かはある。実物は無論見ていない。最近までこの絵のどこがそれまでの絵画と違い斬新なのか理解できなかった。「色面を並置したようかのような平面的な描き方は、浮世絵からも着想を得た‥」という解説がようやくわかりかけてきた(と思う)。
目の前にいる人物を神話や歴史上の人物に仮託したりせずに、また固有名詞として描くのではないことが主流となり、また技法も構図も斬新なものであったことがわかりかけてきた。浮世絵の影響ということも少しだけ理解できるようになってきた。
黒い上着など腕の部分と胸の部分の重なりがボタンが無ければ遠近がわからない。たぶんアカデミックな描き方では黒にグラデーションを付けたり光を添えたりして遠近を付けたであろうことも想像できる。肩に掛けた冬や白の襷につけた黒い輪郭線、顔の黒い輪郭線、ズボンの黒いストライプの模様の区別が何となく曖昧である。これが色面構成の妙なのであろう。そうやってみると従来の絵とは違いそうだと思えてきた。しかし描かれた少年は実にリアルである。これも面白い。
この展覧会ではミレーやコローのバルビゾン派の絵と、印象派が対抗したサロンに拠ったカバネルやブクローなどのアカデミズムの画家も展示され、比較することができるようになっている。
展示コーナーは9つに分かれ、初めは「第1章 マネ、新しい絵画」と題したマネの初期の作品からはじまり、「第2章 レアリスムの諸相」でクールベ、ミレー、コローにはじまり印象派のカイユボットに繋がる流れが展示されている。
「第3章 歴史画」では歴史画の範囲が同時代にひろがり、ヨーロッパから世界へと対象地域も広がってアカデミズム自体も題材だけでなく技法も多様化していったことを暗示する展示になっている。
「第4章 裸体」では従来の理想化された裸体表現から印象派によって現実性、あるいはあらたな人体表現への挑戦として扱われたことがわかる。
「第5章 印象派の風景」では印象派の画家たちが現実の風景といかに格闘したかがわかるような展示をめざしていた。このコーナーは私には今回の見どころのひとつであった。何といってもモネの「かささぎ」を実際に目にしたのは嬉しかった。
「第6章 静物」は印象派で静物画の役割の大きさを示し、「第7章 肖像」では肖像画の描く対象の変化(王侯貴族→都市ブルジョアジー→家族の集団画→周囲の人々)を示している。そして「第8章 近代生活」では、産業革命、都市膨張・改造、新しい都市生活といった近代にこだわった印象派の指向を展示している。
最後の部屋「第9章 円熟期のマネ」のコーナーは印象派に大きな影響を与えたマネの円熟期から晩年のマネの作品6点を展示。最後の第8回印象派展は1886年だが、1882年に亡くなったマネは印象派展には出品していないものの印象派の象徴的な画家である。マネの最晩年の作品に接することのできる印象深いコーナーといえる。私は初めて「ロシュフォールの逃亡」と「ガラスの花瓶の花」「アスパラガス」を見た。存在は聞いたことがあるが初めて目にすることができた。
私は今回それぞれの絵の制作年代に注目して見て回った。いづれも明治維新前後の時代と重なる。
横浜開港の年、明治維新のときの時代を振り返りながら見ることで、時代を感じようと思った。同時に明治以降の日本の西洋絵画を志した人々が接した西洋絵画が、実に西洋絵画の革新期の直後にそれを吸収していたことがあらためて実感した。同時に江戸後期からの絵画の歴史との接点についても考えさせられた。
今回の展示については、神奈川大学のエクステンション講座で、
一昨年から一年続いた「ヨーロッパの芸術を旅する」と「続・ヨーロッパの芸術を旅する」を担当された伊坂青司教授、
「アート鑑賞を楽しむ西洋美術基礎」と「旬なアートで楽しむ美術鑑賞西洋秘術編」を半年担当してくれたアートナビゲーターの三沢恵子さん、
から得た知識がとても役に立った。感謝である。
間違った理解に基づいて間違った記述をしているかもしれないが、それは理解できていなくて、予断と偏見のかたまりである私のなせる業である。
次回は気に入った個別の絵の私なりの感想を記したいと思う。