Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「ささやかな感動」の発信

2011年01月16日 17時26分35秒 | 読書
 「定年を迎えると人はせっかちになる」、と云われることがある。昔は何を言っているのかわからなかった。また切実にそのことを考えたこともなかった。人は歳を取るに従い短気になるのか、あるいは死に急ぐものなのか、と思った程度で、別に気にも留めなかった。
 定年を約一年後に控えて何となくこの言葉が気になり始めた。60歳以降も仕事を続ける人もいようがこれも大体65歳位までだろう。その後は趣味に生きるか、他の仕事を始めるか、その他も含めていろいろ選択肢はあろうが、いづれにしろ何かに打ち込みたいと思う。
 組織の中で続けてきた仕事は他にいろいろ煩わされながら遂行していたことを考えれば、何かをする場合これまでよりは集中して遂行できる。また何か集中してできることを模索もしていよう。おのずから他人から見れば、がむしゃらにも、あせっているようにも見えるのだろう。それが「せっかち」と他人には映るのかと最近思うようになった。
 私も60歳で仕事を辞めるという選択をしたとして、あるいは65歳で辞めて、果たしてその後何をしようかと思うと暗澹たる思いになる。何か集中してそこにのめりこむものが欲しいと切実に思うだろう。それが何になるかはわからない。しかしやる気になったり、処理して欲しいといわれたことに、気持ちは集中するのではないだろうか。それが他人にはせっかちに事を処理しているように映るのだろう。
 現役の間にやりたいという衝動があり、そのほとんどは仕事や雑事に追われてできてこなかった。何かを作り上げることを除けばたいていの場合は受身のことである。私で云えば読書・美術鑑賞・クラシック音楽の鑑賞等、すべて受身である。これではすぐに飽きというものが訪れるか、受身であることに物足りなさを感じるようになるのではないだろうか。鑑賞したもののささやかな感動を自分なりに表現する方法があれば別だが。
 そういった意味では、下手な俳句は少なくとも受身ではない。自分から発信するものである。
 ブログもその発信の一つの手段であるのだろう。しかしこれはなかなか読者が見えない。何か自分なりに納得する「ささやかな感動の表現方法」を見つけたいと思う。この模索・試行錯誤をこれから一年かけてみようと思う。