Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

松本竣介展(in仙台) 3

2012年08月18日 18時30分40秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
Y市の橋 1942


Y市の橋 1943


Y市の橋 1944


Y市の橋 1944 デッサン


 「Y市の橋」は4作品がある。そのうち戦前のそれも画家の大きな転換点である1942年から194年に描かれている。背景の建物が大きくなったり小さくなったり、跨線橋が鮮明になったりといろいろ変化があり、1944年のものが構図的にもすっきりしている。私はこれが完成形と思い、これが一番好みである。橋よりも跨線橋の形態が画家の主題なのかもしれない。実は人物が描かれているのは、2作品かと思っていたが、洲之内徹は1943年の人物らしい黒い影はベンチレーターではないかと指摘している。それはさておき、この3枚のように画家は年の風景を忠実に描いているわけではない。あくまで人工物の配列や構成にこだわり、主となる構造物の形を引き立たせるように配列を自由に変えていく。画家がこだわる都市の美がもっとも強調されるように周囲の構成を変えている。ここでは橋と跨線橋とこの二つの造形的なあり様にこだわっていることがわかる。
 しかしここでも都市は、活力を感ずることはない。人の流れもない。人間を拒絶した不思議な景観である。そこに1人描かれた人間らしき黒い影からも生きている活力は感じられない。それ以前に都市を描いていたものから、突如人間がすべて排除された不気味な無人の都市を思わせる。
 完成形のもののデッサンを横に並べてみたが、私はいづれの絵にもあるこのデッサンが好きだ。完成形をモノクロームで別の作品のように仕上げた感じもする。あえて掲載してみた。

 1941年頃を画期として大きく転換した松本竣介の絵について、多くは昨日掲載した「画家の像」「立てる像」「三人」「五人」を契機とするようである。私は洲之内徹の指摘するとおりこの4点の作品は、あの座談会に対する画家の反発を契機として、表現してしまった以上ある意味画家ののっぴきならぬ大きな力を感じて、自己防衛的な表現、そして自己の存在確認のための表現のような気がしている。
 そういった意味ではあの4点は、画家のネガティブな動機に基づく作品かもしれないのだ。それなのに「抵抗の象徴」としての作品に祭り上げられ、そして現在でも自称前衛党の党員・議員たちが大挙してこの展覧会を見に行く事態が続いている。画家にとってはいい迷惑かもしれない。
 そうであっても画家の思いは詰まっているのであり、画家の生涯を画した作品であることには変わりはないが‥。


街   1938年


街にて 1940年


都会  1940年


 本当は画家がどのように戦争を捉え、あの時代を潜り抜けたかは、画家の絵に対する態度、絵の変容の中から想像するしかないはずだ。私にはそんな力量はとてもないが、それでも気になることがある。
 1941年が画期となって大きく絵が変容するのだが、確かにそれまでの都市の風景は「街」(1938年)や「街にて」、「都会」(共に1940年)などのいわゆるモンタージュといわれる複合画法に登場する無国籍風の女性像や都市風景の絵とは大きな隔絶がある。
 画家は「今の僕は、人間的汚濁の一切をたヽきこんだところから生れるものを美と言ひたいのだ」というように、活気と猥雑とに充ちた都市の様相を、何の疎外感も違和感もなく受け入れてそして一心に表現していた。
 さらに今回の展覧会で「構図」と題されたセクションがあり、そこにはクレーやミロの影響をみることが出来る。具象的なものからより抽象的なものへのの志向が垣間見える。
 これらの絵を見てから、1941年以降の絵の特徴は、
1.以前より暗い画面であること
2.実景に基づくが、それは実景と大きく変容していること
2.人の存在が小さくなり、あるいは人が登場しないこと
3.人が存在するときは黒い塊として犬・荷車等と一体であること
4.街・建物・街路・工場・線路・運河・橋などの人工構造物が前面に 出ていること
などがあげられる。
 洲之内徹は松本竣介への造形的な関心について、岡鹿之助の影響を指摘すると共に、この1941年以降の絵について、「橋が川を横切る角度、川岸のカーブ‥そういうものこそが竣介の視覚的興味を強く惹きつけたのにちがいないと信じるようになった。彼は川面に枝を垂れている柳だの、水面に映る夕焼の空の残照だの‥そういんピトレスクなものにはまったく興味を示していない。人工の構造物の配列と組み合わせだけが、彼のポエジーに適うかのようである」と書いている。
 松本竣介という画家にとっては、この1941年を画期として、目に映る都市の、東京という都市の風景が大きく変容したのであることは確かだ。それまでの活気と猥雑と、そして無国籍的な要素を前面にきらめいた都市の様相は、あの美術家を圧倒的力で抑えようとする軍部ファシスト達の恫喝を契機として、画家にとっては大きく違った様相を示し始めたのだろう。それまでの都市を構成する人々への関心、人工の構造物への興味は、瞬時に変容させられたのではないか。
 ただしここで多くの場合に問題となる、日本というナショナルなものと近代との相克に類するような葛藤は松本竣介という画家にはなかったようだ。このことはまた大きな課題となるのだろうが、私の手には余る。
 それまでの活気に満ちていた都市は突如画家にそのエネルギーを与えなくなり、無国籍な人びとの往来も影を潜めてしまったのだ。かわりに目に飛び込んでくるのは、静謐ともいえる静かに押さえ込まれた人工の構造物と、時代に取り残されあるいは翻弄されて押し黙る人びとだったのではないだろうか。同時に、画家自身とその家族が生きていくための厳しい生活のため現実と、画家自身が寄って立つ思想・理念の再検討を迫られたといえる。戦争というものが画家にもたらした変容はこのようなものではなかったか。
 画家は時代からの疎外感を都市からの疎外、あるいは孤立と認識しているのだろう。都会を見つめる目は、造形的に都市を具体的な実景から再構成するようになったのではないか。それらが1941年以降の絵の変容に結びついたのではないかと思うようになった。
 画面に現れる点景としての人物はそのような画家を象徴し、あるいは都会を見つめる自己を投影したものであろう。ここでは「画家の像」に見られる大見得を切ったような自負もなければ、「立てる像」のように自己が寄って立つ思想を表現することが許されない時代への不安な意識もない。都市の中に描かれる人物は極端に小さく、そして傍観者的に点景となっていく。この2枚の絵は、背景の描き方といい、古典的な西洋絵画に接続するような人物像である。ナショナルな、日本の絵画の伝統への回帰とは正反対の方向を示している。だから抵抗の画家の名が冠せられたのだろうか。しかしこの方向はこれ以降試みられていない。
 ただ都市を造形的に見つめなおすという自己試練ともいえる厳しい課題に耐えるエネルギーに、私は敬意と共感を覚える。
 画家は抵抗の画家といわれて持ち上げられるような政治的なメッセージを絵画によっては表現していない。しかし強いられた条件のなかで、自己の表現のあり方に強く執着し続け、それをやりきったことは確かである。「抵抗の画家」はその描く絵画の方法論で、軍部へ媚びもせず、活力を失って世界性を喪失した都市の現在を描ききろうとしたのではないか。そしてそれを見つめる目を、黒い人物像として画面に描いたのではないか。政治的なプロパガンダによる「抵抗」などよりは余ほど芸術に対し誠実に振舞ったといえないか。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。