「遺言-対談と往復書簡」を読了。幾度かこの本を読み終わってしまうのが惜しいような気にもなりながら、詠み終わった。
収録されている中では、第2回目の対談が良かった。「沖宮」という新作能の登場人物である「天草四郎」、その乳母の娘である「あや」、さらには竜神の着る衣装の色について、石牟礼道子、志村ふくみ、志村洋子による鼎談となっている。対談というが、志村洋子の役割もまた欠かせない。
この対談では、志村ふくみが染めという行為を通じて「色」についての自身の思想を存分に語っている。私にそれを詳しく論評する資格はないが、含蓄のある言葉が続く。私には三者の指向が「反近代」というものに流されてしまうのではないか、という心配をよそに、したたかな思想が紡がれていく。
いつものように覚書である。
志村:‥藍には、この世の、男性の潔さ、それから、生きている生きざまの立派さ、そういうものがあるんですけど、水縹(みなはだ)にはそれがないんですよ。もっと、今おっしゃったような、少年のままですーっと、なにかミッションを受けて、そこで散ってゆくいろなんです。こちらの緋の色は、まだ五、六歳の乙女が、やっぱり昇天していきますね、だから、両方ともこの世のものではない、あの世とのあわいですね。今までにない‥‥。この世の中ではっきりと出てくる色は、蘇芳(すおう)の赤なんですよね。それは女の念とかね。女のいきざま、そういうものは蘇芳の赤だけど、あの緋の色の紅は、そこまでいかない乙女の、そのままの蕾ですね、ある意味。同じ赤でも全然違うんです。‥色というのは、そのものを表わす、生命を表わしているんじゃないですかね。
洋子:人間という存在は愛だけでは埋まらなくて、悲しみというか苦しみというかそういうものが、ここにひそやかに入ることによって、なんか出来上がるというか、次に行けるような気がするんですけど、それが先生のおっしゃってる「水縹色」と。
志村:「紅」で、という。
石牟礼:美を失ったんですよ。失いつつあります、今の日本人は。
志村:その前に、真・善がもう失われつつあるから、美も必然的に失われてゆくしかない。
洋子:美を勘違いしているんです。きれいなものを美しいと思って、そっちをやっているけど、勘違いしている。本当の美が取り残されて、滅びるというか、でも、この美がないと、命はよみがえらない。
志村:そう。今、石牟礼さんと私は、そこのところを語りたいのですよね。
志村:言葉の内実となる豊穣な世界を失ってしまっているから、言葉そのものが生きなくなって、宙に浮いてしまっている。目に見えるものしかみていない、感じない世の中になっている。
志村:「心慕手追(しんぼしゅつい)」という言葉、心が慕い、手が追う、という、心が思っていることを、手が慕って表現してくれるんだけど、心が思わないと、手は動かない。
洋子:きめ細かい日本語を使えない。言葉の貧困は、イメージの貧困につながると思うんですよ。
志村:(「生死のあわいにあれば」ということについて)石牟礼さんの根っこから、それは出ている言葉でしょう。
石牟礼:若い時からずっと。
志村:(石牟礼さんにとって)死者はいつもともにいた。すべて「生死のあわい」を、もう実をもって体験してらっしゃるものね。私なんかもそうでしょう。
洋子じ先生は、たぶん、水俣病という社会的な大きな問題がなくても、根源的な魂の傷があったんですね。
石牟礼:日常が‥‥。
志村:「沖宮」はやっぱり絶対にお能の形にされたいんですね?
石牟礼:ぜったいにお能にしたい。「沖宮」は。
洋子:見据えているのは、お能の中に浮かび上がる、水色と緋色ですね。
あとがきで志村ふくみは次のように記している。
(石牟礼道子の句について)文章とも詩とも違って、独りで立っている。あの領域には誰も入れない、それなのに否応なく打ちくだかれ、旨の底が烈しくゆらぐのである。
角裂けしけもの歩みくるみぞおちを
ひとつ目の月のぼり尾花ヶ原ふぶき
のぞけばまだ現世ならむか天の洞(うろ)
あらためて読むと恐ろしい句である。
立ちむかうことのできない世界から眼光をすえて、じっとこちらを見抜いている。
傷ついて少し血がにじむほどするどい天の箒木でさっと心身を掃き清められる。
石牟礼さんの句は、一句、一句、道行である。