Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

スポーツは「競う」ものか?

2024年07月28日 19時43分07秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 本日は、敢えて言わせてもらう。もともとテレビはあまり見ないので、それほど「被害」がないとはいえ、毎日のオリンピック放送の氾濫に閉口している。見たくもない番組のオンパレードにはうんざり。
 以下、あくまでも私の思いである。こんな考えを持つ人間がいることを敢えて記してみる。

 スポーツやスポーツ応援が好きな人を腐すつもりはさらさらないが、私はどうしても現在の「スポーツ」のあり様というのが好きになれない。昔からスポーツというものが大の苦手。体育は学校を卒業するまで常に5段階評価で2ないし3あたりをうろうろ。
 スポーツとは本来関係ないのだが、「体育教師」とは常に相容れない関係であった。「体育教師」とはこういうものだという一般化は危険な決めつけであるが、少なくとも当時、スポーツ音痴というだけで私を蔑む態度と見る眼とが嫌いでいつもそっぽを向いていた。それが余計に彼らの私に対する評価をさらに悪くしていた節もある。
 私のスポーツ嫌いの大半はその「体育教師」に基因はしているが、運動生理学、心理学などそっちのけの彼らが主張するスポーツの「集団性」「画一性」「根性論・気合論」にどうしても馴染めなかったし、今もなじめない。
 グループの人間と同じタイミングでは体は動かないし、同じ格好にならない。私からすれば、そんなことどうでもいいことであり、個々人により違いがあるのは当たり前だと思うのだが、教える側はそれが許せないらしい。
 そんな思いは川崎に転校してきた小学4年生の時からである。私が歩くとき両肘の折れ曲がる側が体側側ではなく前に向くのがおかしいと幾度も歩かされた嫌な思い出がある。最後には「普通の体つきではない」と他の生徒の前で宣告された。
 そんな嫌な体験・思いを続けたくないので、公立中学を敬遠して私立中学・高校に進学したが、変わらなかった。不快な体験・思いは増幅することはあっても弱まることはなかった。
 中学に入ってすぐに東京オリンピックがあり、テレビで鑑賞しろと1週間ほど休校になった。休み明けに体育教師が「日本選手団の一糸乱れぬ入場行進の見事さを見習え、規律こそが第一。他の国の乱れた行進は見苦しかった」というものであった。
 私はあの軍隊式の行進の何処が見事なのか、自由に手を振る他国の選手団の自由さのほうが、人間らしく思えてこの教師の「訓示」に極めて強い違和感を感じた。あの体育教師の頭の中では帝国軍隊がまだ生き残っているのだとも感じた。この思いは後年、吉本隆明の評論を読んで間違っていなかったと納得した。
 エピソードは枚挙にいとまない。そのうちに追々と。
 大学では教養部では体育という科目はあった。授業も受けず、レポートも出さないうちに、紛争の中でいつの間に単位を取得していた。実にいい加減なものであった。

 就職してから学生時代の友人と丹沢から相模湾の景色を見たいということで、バンガローの予約から下見まで一人でしたことから、登山に目覚めた。最初は丹沢から始め、北関東・山梨などの山を経験の豊かな友人に連れられて登った。
 次第に一人で関東近郊の山から東日本の山にフィールドを広げ、「集団性」「画一性」「根性論・気合論」という呪縛から解き放たれるようだった。一人で体を動かす「スポーツ」がこんなにも楽しく、のびのびとしたものであるか、体感して嬉しかった。それ以来登山とジョギングが病みつきになった。
 登山は単独行、ないし個人の体力を基に、天候の読み、山行の難易度に対する知識と構えを互いに尊重しあえる2~3人の山行を心掛けた。30歳を過ぎてからは家族登山を除いて、ほとんどが単独行になった。
 スポーツとは「個人で行うもの」「自然の力と自分の体力を見極める知力が前提」というのが基本であると思っている。私のスポーツ観はこれに尽きる。これ以上でもこれ以下でもない。これだけである。

 だから「競う」という発想が私にはもともとない。タイムや距離という客観的な指標を目標にすることまでは理解できる。しかし人と競ったり、勝ち負けにこだわったりすることがどうしても理解できない。
 力量を披露しあうこと、自分がどの程度に進歩したか、客観的に自己を見つめる場をすべて否定するつもりはない。
 それでも私には、そのような場に興味がないとしか言い様がない。そんな人間であることを表明すると、ほとんどの人が「理解できない」という。
 さらに「オリンピック」もまったく興味がない。まして「国別対抗」という形態そのものが理解できない。国家によるメダル獲得競争の煽り、メダルの獲得の目的化、いづれも「国威」発揚そのものとしか思えない。

 こういう私は圧倒的に少数派である。そういう自覚はしている。しかしそういう人間がかなりの数存在していることも事実である。意外とこういう人間のほうが多数かもしれない。集団の同調圧力でかき消されてしまっているように思う。
 オリンピックの期間、いつも私にとっては実に憂鬱な期間である。


香月泰男のシベリア・シリーズから

2024年07月28日 13時35分15秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 毎日曜日のNHKの日曜美術館はさいわいにもオリンピック放映にかき消されることなく、今回も放映された。しかも「香月泰男のシベリア・シリーズ」であった。
 香月泰男の名を知ったのは1972年頃だったと思う。むろんまだ全容は知らなかった。またなぜ香月泰男だったのか、その契機も記憶にない。
 記憶が正しいとすると、1970年に発表された同シリーズの「朕」の添えられた画家本人の言葉に感激した。これが1972年なのか、もっとあとなのか、問い詰められると自信はない。
 「人間が人間に命令服従を強請して、死に追いやることが許されるだろうか。民俗のため、国民のため、朕のため、などと美名をでっち上げて・・・・・・。朕という名のもとに、尊い生命に軽重をつけ、兵隊たちの生死を羽毛の如く軽く扱った軍人勅諭なるものへの私憤を、描かずにはいられなかった。敗戦の年の紀元節の営庭は零下30度余り、小さな雪が結晶のまま、静かに目の前を光りながら落ちてゆく。兵隊たちは凍傷をおそれて、足踏みをしながら、古風でもったいぶった言葉の羅列の終わるのを待った。・・・・朕の名のため、数多くの人間が命を失った。
 香月泰男はシベリア・シリーズの一点一点について解説文を自ら書いている。
 「自分に忠実であろうとすると、ますます他人には分かりにくいものになっていく。一方で人に理解されたくない、これはオレのものだという気持ちがあるのに、やはり分かってもらいたいという気持ちも他方にあるのは否定できない。しかし、妥協はできない。解決策として、私は説明文をつけることにした

 東西冷戦下の日本の国家体制、世界秩序の根幹であった西側民主主義と「社会主義」圏の、共に国家の名による抑圧、それらの縮図である国内の保守・革新という図式と党派の論理の跋扈・・。当時の新左翼運動もこれらからの止揚をめざしつつ、それに押しつぶされて暴走を始めていた。
 そんななかで画家の立場から明確に、「朕」に解説文が発せられていることに当時の私はとても惹かれた。
 なお、作品の中央部の白い部分は「読み上げられている軍人勅諭」である。その背景の人物は営庭で聞かされている兵隊でもあり、同時に亡くなった兵隊でもあるのだろう。

 実はシベリア・シリーズは初期の2点を除いて「黒」が主体の作品である。その「黒」を際立たせる技法の秘密も紹介していた。



 しかしながら、シベリア・シリーズ以外の諸作品は色彩があふれるような抒情的な作品で溢れている。これもまた香月泰男の魅力の作品群である。

(遠吠え)本日の番組ではこの「朕」という作品の紹介もあり、また添えられた作者の解説文も読み上げていた。数年前には想像できなかったことである。NHKも部門ごと、番組ごとにずいぶんとニュアンスや意図に差が出てきたようだ。どれが正しいなどとはいわないが、少し前のように力あるものへの忖度をやめ、力におもねることをやめ、時代の病理をえぐり、多様性のある番組を望みたいものである。