Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

加藤楸邨「野哭」

2016年09月11日 23時41分09秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 加藤楸邨の、戦後すぐの句集「野哭」を読んでいる。この句集は「流離抄」(1945.5~1946.7)の77句、「北海紀行」(1946.8)の39句、「野哭抄」(1946.9~1947.12)の139句を収めている。本日は、「流離抄」と「北海紀行」を読んだ。

 表紙裏に次の句が掲げられている。
  この書を今は亡き友に捧げる
・火の中に死なざりしかば野分満つ
という句からはじまる。
 句集自体の第1句は
・一本の鶏頭燃えて戦終る

 戦後還らぬ人や、戦後の飢え、焼け跡の東京、生き残ったものとしての述懐などの句が連なっている。
・雉子の眸のかうかうとして売られけり
・凩やかぎりしられぬ星の数
・米尽きし厨に春の没日かな
・羽蟻たつ悲運は一人のみならず
・生きのこりゐて柿甘き秩父かな
となまなましい時期の句が並ぶ。戦後の飛躍を為したといわれる「野哭」の助走かとも思われるが、読み飛ばすことのできない句が並ぶ。

白鷺 その2

2016年09月11日 17時03分42秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 「言葉の泉」というブログに「白露」と題した一文が掲載されている。【http://blog.goo.ne.jp/rurou_2005/e/14e57a9aa246f0283bb2dd5b0d2f2229】。
以下引用させてもらう。


露の中万想うごく子の寝息(加藤楸邨)
(穂高病む)の前書きがある。
露がおりる秋も深くなりつつある夜、病んでいる子どもを看病する作者。
白露がおりる秋の夜は美しくもわびしい。
わびしくもはかなげな露をおもうとき、今病んで寝ているこどもの寝息をうかがいその生死を不安に思う気持ちが重なる。
「万相うごく」にそれは一気に凝縮される。
苦しげな子どもの寝息の中、一切の秋の万相は動いているのだ。
一刻一刻を不安にすごす親と子の枕辺に美しいまでに光る白露の秋が暮れていく。
露ははかなく無常なものをおもわせる、せつないばかりの余情がただよう句である。



 この句のことは知らなかった。加藤楸邨句集を見たら初期の代表となる句集「寒雷」の最後にある「達谷抄」(1940年)14句の中にあった。この達谷抄は死が色濃く匂う。死を直接うたった句が4句、病いを詠んだ句が2句、それらと重複するが軍隊をうたった句が4句。日中戦争が大きな行き詰まりを見せ、太平洋戦争に突入する前年の作品群である。
 なお「穂高」は楸邨の長男の名。14句の中から5句を選んでみた。

・春塵の没日音なき卓を拭き  (前書きに「教へ子斎藤中尉戦死」)
・露の中万相うごく子の寝息
・蟷螂の死に了るまで大没日
・寒光る雲の磊塊砲車過ぐ
・炎天の一隅松となりて立つ

 1940年というと午前中にアップした石田波郷の「露葎軍靴のあとを日々とどめ」とごく近い時期に作られた句である。行き詰った日中戦争下の重苦しい時代を写し取っている。自分の幼い子の重病までもが、そのような時代の中で押し潰れそうな社会や家族とかぶさっている。戦の世による「死」が日常的に浸透しつつあったと類推できる。
 「春塵の‥」の「音なき卓を拭」く行為に、持って生きようのない感情が滲み出ている。
 「蟷螂の‥」は有名な句である。小さな枯蟷螂の黄土色と、巨大なエネルギーの塊の橙色がかった大没日の対比が、小さな生命体の意地を見るという解釈を教わった。「英雄的な死」が礼賛される当時の社会背景の中、これをさらに蟷螂の不動の姿勢に「将兵の英雄化された死」を見るという拡大解釈は私にはできない。「死」は戦での死だけに意味があるのではない。日常の中での「死」にこそ人としての尊厳があるはずである。蟷螂はそれを認識する手かがりとしてあると思う。
 「寒光る‥」の句。磊(らい)とは、多くの石が重なり合う様、または大きな石の意であるという。寒光るという季語であるから、丸みを帯びた柔らかい雲の意よりも、冷たい身を切る風をもたらす雲の印象であろうが、それでもイメージとして砲車につながるのは異様である。むろん2句と3句で切れているので磊塊と砲車は直接の因果関係でも形容関係でもないが、イメージの連鎖という関係を想定しなくてはならないだろう。雲が作者の日常を圧するような重しとして認識され、さらに砲車という戦の世を象徴する重量のあるものと繋がるという感覚。「死」と「戦」が日常に深く食い込んでいる時代である。
 「炎天‥」の句、松となった立つのは誰であろうか。炎天からの光と熱の強い放射を受けて立ち尽くすのは作者、「教へ子」、「死と闘う病の子」‥いづれであろうか。松は「蟷螂」でもあろうか。


白露

2016年09月11日 11時52分54秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 9月7日から21日がもう二十四節気の白露。「陰気ようやく重なりて露こごりて白色となれば也(暦便覧)。野には薄の穂が顔を出し、秋の趣がひとしお感じられる頃。朝夕の心地よい涼風に、幾分の肌寒さを感じさせる冷風が混じり始める」という説明がある。
 しかし横浜では昨日は31℃近くまで気温が上がり、とてもそのようには感じない。ただし蝉の声が次第に小さくなり、虫の音が耳に着くようになり、そして芒の穂やコスモスを見かけるようになっている。動植物は秋を忘れてはいない。

・露葎軍靴のあとを日々とどめ      石田波郷
・露みつついつか渤海のくらきうねり   加藤楸邨

 石田波郷の句集を見るとこの句は「鶴の眼」所収。1939年までの句を収めている。日中戦争の時期の句である。句集を見ると「露葎」という季語が多く使われている。波郷はこの季語が気に入っているのであろう。露を大量につけた秋の野の風情が荒涼とした心象風景を拡大する。そこに軍靴を持ってきた。軍隊の行軍で日々踏みつけられる枯れた野の草。露葎、病んだ波郷を重ねるのもいいし、妻子を含んだ民衆像を重ねることもできる。あるいは戦の世の荒涼とした比喩としてもいいかもしれない。暗い時代を読み取りたい。
 加藤楸邨の句集を見ると「12月28日 幹を悼む」とあり、1946年の句である。親族の死を詠んだと思われる。渤海という地名から戦争中に中国北部で亡くなった親族の死を詠んだものと推察している。「くらきうねり」に戦の世にのまれた死の重みを感じる。「露」と「くらきうねり」のイメージが対となっている。
 ただ「いつか」がどう読み取ったらいいのか、今迷っている。