Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

風はおさまった

2016年04月17日 21時25分44秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日横浜では最大瞬間風速29.5メートルを記録したと報道されている。未だに強風波浪注意報は発令されているが、風はおさまっている。
 現在、天頂付近には月齢10日の月と木星がしし座のレグルスの傍にあって美しい。レグルスは横浜では月の光に邪魔されて見にくい。

 夕方5時前に風がおさまったのを見てから横浜駅まで歩いてみた。団地の中はいつもケヤキの小さな枝などが落ちているが、今回は真新しい松の新芽が多数落ちていた。たぶん強い風の
為だと思われる。
 関東地方でもこの風で死者が2名とのこと。どのような状況で亡くなったのわからない。しかしこのような風では無理をして外に出ない方がいい。
 テレビで何度も放映される解体中のビルを覆っていた足場の崩壊、死者もけが人もいないのが奇跡のようなものである。一体どんな足場を作っていたのか、厳しく問われなければならないと思う。

 またNHKのニュースでは気象庁が、布田川断層に沿って南西方向に地震の震源が移るようだ、という見解を示したというが、気象庁のホームページにはこのことの記載はない。阿蘇山の噴火と同じく、もうしばらくこのことについての発言は保留としておくしかなさそうである。

 明日は退職者会の幹事会、朝から9時過ぎから資料の印刷、役員会、部会等が続いて開かれる。早寝をした方が良さそうだ。今秋からはまた忙しくなる。

熊本地震に思うこと

2016年04月17日 15時12分31秒 | 天気と自然災害
 一連の熊本の地震でとうとう死者は41名と発表となり、まだ安否確認が出来ていない方もいるという。大きな人的な被害となったしまった。
 特に16日1時25分のマグニチュード7.3の地震によって発生した南阿蘇村の土砂崩れ、斜面崩壊、断層露出地点での家屋倒壊が被害を大きくしている。
 気象庁の「平成28年(2016年)熊本地震」について(第11報)」が発表された。17日10時までの統計が資料として出ている。
→【http://www.jma.go.jp/jma/press/1604/17a/kaisetsu201604171030.pdf
 最初の震度7の地震以降、60時間で410回もの余震が続いている。1時間当たり7回もの余震ということは、10分未満の間隔で地震を感じているということである。これは恐怖を伴ったとてつもない心的ストレスを人に与える。住んでいる方だけでなく、救援作業に携わる人々にも大きな影響を与えているであろうし、救援活動そのものの遂行に物理的な障害となっていることは容易に察しがつく。
 この資料の中で私が注目したのは、2枚目3枚目にある震源域である。最初は14日21時26分の日奈久断層南側に発生したM6.5、次に15日0時3分の同じく断層南側のM6.4。これは熊本市と益城町を中心に11名の命を奪った。
 そしてふたつ目が16日1時25分に発生した日奈久断層の北側に隣接する布田川断層の北側を震源とするM7.3の最大規模の地震。これは南阿蘇村に多大な被害をもたらした土砂崩れをひき起こした。
 三つ目は阿蘇山を東に超えた別府-万年山断層を動かしたM5.3の地震。これは別府市を中心に震度5弱をもたらした。
 この三つの地震が今回輻輳して、多分連動したか、ひき起こしたかはわからないが、発生したしたと、気象庁はそのような見解に立っている。多分そういうことなのであろう。これ以上の詳しい見解は憶測の域を出ないと思われる。
 また余震の多さについても特筆に値する傾向を示している。群発地震のような様相ではないだろうか。
 特に16日の気象庁が「本震」と名付けた地震以降顕著である。「本震」発生から1週間後にどのような見解が出るか、注目である。
 ただし私は「本震」「前震」という分類が今回妥当かと疑問に感じている。3つの地震が重なっているというのであればなおさらである。仮に1.日奈久断層南側地震、2.布田川断層北側地震、3.別府地震と名付けると、1と3については収束傾向と見ることもできないことはない。この部分を差し引いた時、最大規模の2の地震の傾向が残る。こんな解析方法もあるような気がする。だが即断は禁物である。
 しかしそれにしても余震は多い。

 地震、この後の展開はとても推論などできない。多くの人が不安になっていることに阿蘇山の火山活動との関連が挙げられる。小噴火があったことに対して、気象庁は今のところ「わからない」としている。たぶん設置してある観測機器に変化はないということと理解しているが、数か月を超える尺度で見た場合、何らかの影響というのは出てくる可能性はある。
 私は「わからない」あるいは「観測機器に異常は見られない」なども含めてであるが、状況をもっと発信すべきではないかと思う。何しろ根拠のないさまざまな悪質ともいえる憶測がSNS上に、無責任なデマとして飛び交っている状況である。強権的な国家規模に寄る規制の根拠にされないために、キチンとした状況説明を行政に常に不断に発信つづけることを求めたい。

         

すさまじい風が吹き抜けている

2016年04月17日 13時55分49秒 | 天気と自然災害
 横浜では強風・雷・波浪注意報が発令されている。昨晩から強い風であったし、午前中の風も強かった。ところが13時ころからそれを上回るとてつもない風が吹き荒れている。
 団地なので東西に4重にも号棟が並んでいるので、普段はいくら強い南北の風が吹いても、大体は東西の風として団地内を吹き抜けていく。
 ところが本日は北西の風が上空から地上に吹き付けるように強烈な風である。北側の窓も大きく揺れながら悲鳴を上げている。南側のベランダの窓も音を立てている。南側の芝生は西北西から東南東に向かって波打っている。さらに風が時々舞うように吹き付け、ベランダ内にも殴り掛かるように風が吹き込んでくる。
 風に倒れないように植木鉢や箒やサンダルを脇に寄せていたが、それでも倒れたり、サンダルが風で踊り始め、数分後にひっくり返ってしまった。
 風の音は台風の時よりも甲高い音である。どこかでこの風による被害が予想される。高いビルの足場が倒れる画像がテレビに出ていた。詳細は記憶にないが‥。被害が最小限であることを祈るのみ。
 雨は小降りで時々太陽が顔を出している。

 とてもではないが、外を歩く気になどならない。

 気象庁のデータは直近のはまだ出ていない。正午前に12.5メートルとなっている。ひょっとしたら30メートル超えのような感じもする。

映画『無伴奏』

2016年04月17日 13時38分47秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 この映画、見に行きたいと思いつつ忘れていた。都内での上映は来週の22日まで、ということなので鑑賞できる可能性は低くなってしまった。
 友人のツイッターで【https://twitter.com/cafeavant/status/721527383929454592】取り上げている。
 この「無伴奏」は私も1970年から75年まで通い続けた。コーヒー1杯で午後3時位からずいぶん長時間聴いていた。読書タイムでもあった。
 学生大会やデモでも一緒になる同学年ではあるが、学部が違う人が幾人かアルバイトをしていた。仙台の駅前と一番町を結ぶ中央通りから少しだけ脇に入った地下の喫茶店である。特に72年から74年は週に3回は入っていたと思う。試験前は毎日、ここが一夜漬けの場所であった。
 この記事によると1981年に閉店したと記載してある。確かにその頃に無くなっていてあったと思われる場所をうろうろと探した記憶がある。
 果たしてどのような出来であるのだろうか。ただし同時代というのは穴に入ってしまいたいほどのテレもあるし、うまく感想が書ききれるだろうか。

 都内の上映は以下の通り。神奈川県内では上映していない。
→【http://cinema.pia.co.jp/title/168893/schedule/13/

 以下、朝日新聞記事その他を紹介する。
→【http://www.asahi.com/articles/ASJ47655TJ47UNHB00T.html
 小池真理子さん(63)の半自叙伝的小説が原作の映画「無伴奏」が公開中だ。舞台は四十数年前、学生運動が燃え上がったころの仙台で、一番町に実在したバロック喫茶「無伴奏」。若者たちはここで恋に落ち、時代に抗(あらが)い、孤独と向き合っていた。
 店主は木村雅雄さん(70)。東北学院大の学生だったが、雇われて働く気はなく、さりとてやりたいことも見つからず、卒業後に始めたのが「無伴奏」だ。銀行だったビルの地下の元金庫室を安く借り、最低限の内装に、米国製スピーカーを据え付け、買いためたLPレコードをかけた。
 バロック音楽専門で、店の名はバッハの「無伴奏チェロ組曲」から。スピーカーを埋め込んだ壁を向き、教室のようにイスが並ぶ。「静かにお話しください」と紙が貼られ、コーヒー1杯100円。いつもたばこの煙が満ちていた。
 開店した1969年、全国の大学に全共闘運動が広がっていた。一番町や青葉通りではデモ隊と機動隊が激しく衝突。その帰り、学生たちは「無伴奏」で熱を冷まし、パッヘルベルのカノンを聴き、吉本隆明や三島由紀夫を語った。
 木村さんは、よく店の入り口左手に座り、つんと澄ましていた少女を覚えている。宮城三女高(現・仙台三桜高)生だった小池真理子さん。高校で制服廃止を呼びかけアジビラをまき、勾当台公園の反戦フォーク集会に背伸びをして出かけた。仙台一高生のボーイフレンドと店で待ち合わせることも。未来の直木賞作家になるとは、木村さんは知る由もない。
 歌人の小池光さん(68)も、デモと「無伴奏」の空気を吸っていた一人。東北大では大学本部を占拠し、夜行列車で東京の学生集会にも出かけた。
 「燃えるような共通体験を持ちながらも、誰もが孤独で、不安で、自分を見つめていた。そんな時代だった」と振り返る。店で何時間も過ごし、ノートに詩を書き連ねた。現在は仙台文学館館長だ。
 70年代に入ると、大学紛争は下火になる。木村さんは12年半続けた「無伴奏」を81年に閉じた。バロックの響きに魅入られ、川崎町にチェンバロ工房を開いて移り住み、楽器製作を続ける。「無伴奏」でやりたいことを見つけたのだった。
 東京の大学に進んだ小池真理子さんは作家になり、90年に小説「無伴奏」を発表。後にこんな風に書いている。「思春期の私に与えられた刺激のすべてが『無伴奏』という店にあった。……作家になる芽があったのだとしたら、それはまさしくあの頃、仙台という街で培われたものだ」
 二人は2008年、仙台文学館の企画で対談し、約40年ぶりの再会を果たしている。
 時は流れ、人は年齢を重ねた。
 街なかの至る所にあった昔風の喫茶店は、多くが姿を消した。震災を経てビルが次々建ち、通りはこぎれいになった。ただ、今も仙台は学生が多い街。ときどき、小さなデモもある。(石橋英昭)
 〈小説と映画「無伴奏」〉 小説は新潮文庫、集英社文庫刊。小池真理子さんがあの時代の仙台を背景に、自身をモデルにして秘められた恋を描いた。矢崎仁司監督が映画化し、池松壮亮、成海璃子、斎藤工(写真左から)らが当時の若者たちを演じる。元店主の木村さんの協力を得て、セットで「無伴奏」を再現。最後のシーンで、かつての「指定席」に座った小池さんが一瞬だけ登場する。「フォーラム仙台」で上映中。

 次のような解説もある。
→【http://www.cinra.net/news/20150727-mubansou