syuの日記・気まま旅

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頼朝を追い込んだ大庭氏の城址と真鶴・湯河原

2018-10-14 | 気まま旅
東海道53次の6番目の宿場「藤沢宿」
遊行寺の門前町として栄え、後北条時代は小田原城と支城の江戸城の桜田門、八王子城、玉縄城をつなぐ小田原街道の分岐点が藤沢。
清浄光寺(遊行寺)の東側に「江戸側の見附(江戸方見附)」
現在の小田急江ノ島線を越えた西側あたりに「京都側の見附(上方見附)」があった。この範囲が「藤沢宿」である。
境川に架かる大鋸橋(現遊行寺橋)を境に、江戸側(東岸)の大鋸町・後に西村が分立)は相模国鎌倉郡、
京都側(西岸)の大久保町、坂戸町は同国高座郡に属したと云う。
清浄光寺・通称ー遊行寺、が近くにあり、手前の大鋸橋の京都側南東には江島神社の一の鳥居があり、ここから、江の島道が約1里(約4km)の距離で
「江の島」に通じている。
八王子道(現・国道467号)のわきには源義経が祀られている「白旗神社」がある。幕末には70軒以上の旅籠でさかえた。
「藤沢御殿」-徳川将軍家の宿泊施設は、現在の藤沢公民館と藤沢市民病院の間にあったと云う。
慶長元年頃東西106間、南北62間の広さの御殿が建てられ、表御門は南側、裏御門は東側に、徳川家康、秀忠、家光と利用されている。
1682年、まで設置。現在では御殿橋、陣屋小路、陣屋橋などの地名がある。本陣は、1745年、までは堀内本陣、その後は蒔田本陣があった。

「藤沢・大庭城址公園」へ
城は、12世紀、平氏の「大庭氏」の拠を、15世紀に入り「太田道灌」が本格的に築造した城跡。
その後、小田原北条氏が改修したと伝えられている。
周辺に、駒寄、裏門、二番構などの地名が残っていと云う。雄大な城が偲ばれます。
引地川と小糸川に挟まれ、掘りの役割をしたと思われる。
                            全体の公園地図


                            現在の周囲

「大庭景義(景能)」 鎌倉景正の曾孫にあたり桓武平氏支流・相模国の武将・兄弟に景義・豊田・「景親」・子に景兼(跡を継ぐ)
源義朝に忠誠を誓う。保元元年の1156年、「保元の乱」においては義朝に従軍して出陣、敵方の源為朝の矢に当たり負傷。これ以降歩行困難の身となり、家督を弟の「大庭景親」に任せ、第一線を退いて懐島郷に隠棲した。
1180年、「源頼朝」が挙兵すると、
弟の「景親」と袂を分かち。
頼朝の麾下に参加。後に景親が頼朝に敗れ囚われの身となると、頼朝から「助命嘆願をするか」と打診されるが、これを断り全てを頼朝の裁断に任せたという。その後も、草創期の鎌倉幕府において、長老格として重きをなした。
「藤原泰衡」を征伐する際、頼朝は、後白河法皇の院宣を得られず苦慮していた。しかし「景義」が、奥州藤原氏は源氏の家人であるので誅罰に勅許は不要なこと、戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先されることを主張。その意見が採用されたと云う。
後に「景義」は出家している。嫡男の大庭景兼が跡を継いだ。
1193年、大庭景義は、同じ相模の有力武士の「岡崎義実」とともに、老齢を理由に出家したことになっている。
しかし、わずか2年後に「景義」は、「頼朝公の旗揚げより大功ある身ながら疑いをかけられ鎌倉を追われ、愁鬱のまま3年を過ごして参りました」と
書面を奉じ、許されたとある。
                            公園前の道路


「大庭景親」 1180年前後  石橋山の戦いで、源頼朝を破った武将。
鎌倉景政の曽孫で、兄「大庭景義」と「源義朝」と共に白河殿攻撃に加わって、後白河天皇方に勝利をもたらしている。が
頼朝挙兵は、平家の恩に報いるため、兄「景能」と敵味方に。3000騎を率いて「石橋山」へ・頼朝軍を破っている。
頼朝が再び勢力を振るい再戦、平家軍と合流したが敗戦に、途中で頼朝軍と遭遇し捕らえられた。兄景能は助命を嘆願しているが景親は片瀬川で斬られている。兄景能は、鶴岡八幡宮奉行などで長老として仰雅れたとある。



「大庭城址」
平安時代の末期、この地は大庭御厨と呼ばれる伊勢神宮の荘園であった。この荘園は、桓武平氏の流れをくむ鎌倉景正(権五郎、景政とも表記)によって開拓され、伊勢神宮に寄進されたもので、のち子孫は大庭氏に改姓し、代々治めていた。

城を築城したのは大庭景親の父にあたる大庭景宗と言われている。「大庭の舘(たて)」とも呼ばれ、景親らの軍事拠点として重要な役割を果たしたと想定される。石橋山の戦いで源頼朝に勝ったものの、一族のほとんどは筑前(現在の福岡県)に渡ってしまうが景親は最後まで抵抗し、捕らえられ斬首される。その後兄の大庭景義の子である大庭景兼(小次郎景兼)が和田合戦にまきこまれ大庭氏は滅亡したとされていたが、現在では、筑後(現在の福岡)に逃れたという説が有力とされている。

大庭氏の子孫および一族の存続を示す具体的な記録の一つとして、相模国の大庭三郎景連が備後の新庄本郷に地頭として任命され、建保元年(1213年)、当地で築城した事例がみえる。のち大場氏と称した。なおこれも大庭城(または大場山城、本郷城などの別称あり)との呼称が残っている。

                             公園入口


「扇谷上杉氏の時代」
扇谷上杉氏の家臣であり江戸城を築城した築城の名手「太田道灌」が鎌倉と糟屋館の中間地点のこの地に最新の技術と取り入れ築城工事をおこなったと云われている。
しかし、この後、相模を侵攻してきた「北条早雲」によって大庭城は落城し、この戦の「舟地蔵伝説」が残っている。

                            公園内から


「後北条氏の時代」
東相模を制圧した早雲は、大庭城を大改修したが、「玉縄城」を築城し、利用価値は低くくなる。
後北条氏が滅ぶと廃城に。
                         散歩道(誰もいない静かな公園)


戦国時代の大規模な空堀や土塁などがところどころに残っている。
公園として保存・周辺は湘南ライフタウンが開発。
                            緑に覆われた公園内


                  園内には、桜・藤棚・バラ園・紫陽花(6月)などが。


「原始・古代遺跡の集落跡」
原始・古代の集落遺跡
台地上に、縄文・弥生・古墳・奈良・平安時代など各時代の遺物が広く散布しており、大庭城が築かれる以前から、人々の生活舞台となっている。
数回におよぶ部分的な発掘調査でも、縄文時代の集石遺構をはじめ、弥生時代後期から古墳時代にかけての竪穴住居や方形周溝墓・奈良・平安時代の
住居跡などが出土。
                     大庭城址公園 面積 11.8H2 


                 原始・古代集落跡が発掘された。(大昔からここで生活を)   


                         園内広場


                        城址説明板


                         空堀案内石


                       山斜面の「空堀あと」

          


                      掘立柱建物城址


                      井戸跡であったのでは?

                        
                        南口の山道


「舟地蔵」伝説。
台座が舟の形をしていることから「舟地蔵」と。
「北条早雲」が、大庭城を攻めたとき、沼地で攻め入ることができず、近くに住む老婆に「引地川の堤を切れば、沼地が干上がる」とを聞き出し、北条軍はそのとおりにして大庭城を攻め落とした。
しかし、 老婆から、秘密が漏れるのを防ぐため、城を攻めるのに先立って斬り殺されてしまったという。
一説には、その老婆を供養するために建てられたのがこの「舟地蔵」なのだと伝えられている。

                        舟地蔵

                     


             舟地蔵板ー北条早雲が攻めたときはこの一帯 沼地とある。


                         引地川水路


                   、公園外にも小さい遊園地があると云う(この範囲は城跡に)


湘南ベットタウン
藤沢市、西部土地区画整理事業と茅ヶ崎市、茅ヶ崎都市計画事業堤地区土地区画整理事業により誕生。
総面積は340.74H2、計画人口は45,000人とされているが居住人口は32,085人と云う。
昭和30年代の高度経済成長の下で神奈川県内は首都圏のベッドタウンとして開発が進んでいったが、それに伴って都市のスプロール化も進んでいった。
それを防止する目的で誕生したのがこの区画整理事業と云う。
1992年に完了し、(かながわのまちなみ100選に選定)
太い幹線道路に平行して生活道路・開発地内の農家をそのまま残していることが特徴で、(設計は黒川紀章)
子供たちの安全のためか、住宅街を車が通り抜けできないように、工夫して道路を配置している。
南の藤沢・辻堂方面、西の茅ヶ崎・寒川方面、北の湘南台・御所見方面、東の六会・善行方面のどこへいくのも長い坂が、そのため、競争がないため、ライフタウン内の物価は比較的高い傾向にあり、車とバイクが生活必需品と云う。
                       


「石橋山」ーJR早川駅海の向かって右の山。
源頼朝は300騎をもって石橋山に陣を構え、「以仁王」の令旨を御旗に高く掲げさせた。
谷ひとつ隔てて景親の軍も布陣。さらに伊豆国の豪族伊東祐親も300騎を率いて石橋山の後山まで進出して頼朝の背後を塞いだ。
この日は大雨となった。そのため、増援の三浦軍は酒匂川の増水によって足止めされ、頼朝軍への合流ができなかった。



「大庭 景親」生誕不詳ー1180。
平安時代末期の相模国の武将。平良文の末裔である鎌倉景政の流れを汲む大庭氏の一族(景親は景政の曾孫にあたる)。
平治の乱後に平家の忠実な家人になり、治承4年の1180年、に義朝の遺児・源頼朝が挙兵すると平家方の武士を率いて石橋山の戦いで頼朝を撃破。
安房国へ逃れた頼朝が再挙して多くの東国武士に迎えられて鎌倉へ入ると抗する術を失う。
頼朝が富士川の戦いで平氏に大勝した後に降伏し、処刑された。
大庭城は、大庭景親の居城・本格的な築城は、扇谷上杉家の定正に仕えた太田道灌が行ったとされている。その後、北条早雲によって攻略され小田原北条氏の支配下に置かれた。小田原北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると廃城。現在は、大庭城址公園として整備されている。
大庭御厨・鎌倉権五郎景政が開発し、伊勢神宮に寄進した荘園。この辺りから茅ヶ崎へ至る平地は、当時の一等地であったと云う。
古くより大きな集落があったものと考えられている

「伊東祐親」生誕不詳ー1182。
治承4年の1180年、頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、大庭景親らと協力して石橋山の戦いにてこれを撃破する。
しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。
頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、義澄による助命嘆願が功を奏し、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てた。



「源頼朝と伊東祐親」
東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、平治元年の1159年、平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた源頼朝の監視を任される。
伊東祐親が大番役で上洛している間に、娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸を儲けるまでの仲になってしまう。
祐親はこれを知って激怒し、1175年、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝自身の殺害を図ったが。
頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の祐清が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得たという。祐親はこの前後に出家していると云う。

石橋山の戦いは、平家軍3000騎・源氏300騎(北条宗時・佐奈田義忠など討死している)


「源頼朝股肱の臣 土肥実平」
10世紀頃から関東に勢力を伸ばした平氏の一族の出で、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)に住んで土肥を名字とした。
源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると嫡男遠平とともに参画し、以後数々の合戦に出陣、頼朝の信任篤い将となり、富士川の合戦後に頼朝・義経兄弟が対面した際にはその取次ぎをしたことで知られている。
平家追討の戦いでは義経を補佐して功を立て、備前・備中・備後の守護職が、嫡男遠平に安芸国内の地頭職が与えられ、土肥氏と西国との関わりはここに始まる。平家滅亡後も、かつて補佐していた義経追討や、奥州征伐などの合戦にも加わり、頼朝股肱の臣として常に第一線で活躍を。

「小早川家の祖」
湯河原町のJR湯河原駅周辺は、かつて実平が屋敷を構えた地で、今でも「土肥」の地名が残され、土肥氏の領地はこの近辺だけでなく、小田原市内にも及び、実平の嫡男・遠平は、現在の小田原市内にあった早川荘からとった小早川を名字とし、また小田原に城を築いている。
遠平の嫡流は相模の領地を継いで「土肥」を名乗り、庶流は安芸の領地を継いで「小早川」を氏とし、土肥家は鎌倉時代に勢力を失いますが、小早川家は西国で勢力を固め、山陽を代表する武家となる。
土肥一族が備前の地の領主に返り咲くのは、1600年の「関が原合戦」後のことで、宇喜多秀家に変わって小早川秀秋が備前・美作に封じられ、しかし秀秋は2年足らずで病没、鎌倉以来の名門小早川家は断絶する。

「安達盛長」1135-1200 13人合議制の一人、三浦義明の弟、平塚・伊勢原、千葉常胤(下総介)を味方に付けた。


「真鶴・荒井城址公園」
源頼朝の挙兵以来活躍した「土肥実平」の祖父を「荒井刑部・実継」とする説がある。「城願寺縁起」。
荒井氏はこの付近に関係があったと思われ、城地の西の山裾にある福浦は、江戸初期まで「荒井村」と称していた。
頼朝らが「箱根権現」からこの真鶴・岩海岸で漁舟で千葉・房総へ向かっている。

1186年、当時の推定年齢、源頼朝(39)、土肥実平(61)、土肥遠平(36)、 土屋宗遠(58)、岡崎義実(74)、足立盛長(51)、新開忠氏(57)、(田代信綱(41)。
    

                   湯河原駅前    「土肥氏像」






















敗れた頼朝一行は、真鶴の岩海岸から千葉県房総へ。

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