syuの日記・気まま旅

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遺跡の多い逗子 披露山、持田遺跡 名越の切通し

2018-10-18 | 気まま旅
古代律令時代の官道で都から東へ向かう道は、中部の山地を通るものが東山道と呼ばれた。
日本海沿岸を北上を北陸道・南の太平洋沿岸を進むものが東海道。
東海道といえば安藤広重の浮世絵で知られる東海道五十三次のルートを思い浮かべるが、東海道という道の語源は遙か奈良時代の昔からのものであって、その当時の東国(関東)へ向かう太平洋沿岸の幹線路を江戸時代の道と区別するために「古東海道」と呼んだ。
「古東海道」は、足柄峠から関東へ入り、相模灘に沿って東行し鎌倉へ入っていたと想定されています。鎌倉からは小坪坂を通り、現在の逗子市を抜けて走水(横須賀市)の海岸へと進み、そこから東京湾を渡り房総半島へ。

逗子市は、遺跡が多い。
縄文時代の「披露山遺跡」市の披露山公園の西側。逗子披露山公園住宅という高級住宅地、有名人の住宅もあると云う。
弥生時代の「持田遺跡と長柄桜山古墳群」逗子湾西側の披露山に残る「古東海道」の続きとも想像され興味深い古墳群と東に1000m行けば前出の
持田遺跡、さらに、さらに半島を横切って横須賀の走水に残るヤマトタケル東征伝説との関連にまで言及する見方もあり、桜山、長柄境は一躍考古学上の重要ポイントに。一帯は、平成14年「国指定史跡・長柄桜山古墳群」に指定。
古墳時代の「新宿横穴群」横穴墓は逗子海岸近くの岸壁に、大正12年の関東大地震によって横穴墓が開口し、その存在が。
これまでの発掘調査で22基の横穴墓が確認されている。
横穴墓群隣にはは新宿稲荷神社がある。横穴墓からは4体の人骨の他に青銅製の鈴釧、首飾りに使用された玉類多数、圭頭柄頭が出土した。
現在は土取りや開発によって破壊されてしまったと云う。

「五輪塔」五解脱輪・仏塔の一種。密教で説く五大を方(地),円(水),三角(火),半円(風),宝珠(空)で象徴した。

逗子と云えば池子に海軍の弾薬庫(昭和12年~)が、池子弾薬庫は市の15%を占めていたという。
逗子海岸は、遠浅で家族ずれの海水浴場で人気がある。海岸に徳富蘆花「不如帰」の碑がある。

逗子の地名は逗子大師と呼ばれている「延命寺」、行基作の延命地蔵尊を安置する「厨子」にちなむと伝えられている。
浪子の浪子不動、ヨットハーバー、レストラン、保養地、観光、住宅都市と発展。

               

弘法大師(空海774-835)讃岐国生まれ、上京し大学に、その後仏教に転じ、四国で修行出家、入唐し、
帰国後嵯峨帝より、高野山を賜る。
空海の足跡は各地にあるが四国が多い、「四国遍路」88ヶ所巡礼は今でも盛ん。

延命寺(逗子駅東口徒歩5分)                           逗子大師(弘法大師)                               
              

奈良時代「行基」開基、自作の「延命地蔵菩薩像」を安置し本尊とされた。
平安時代に入り弘法大師空海が下野の国(栃木)に来た折立ち寄り、地蔵尊「厨子」を安置する。
以来住民尊信、逗子の地名の起源と成った。

延命寺 本殿                       拝殿
  

高野山真言宗は、仏教の真髄を説き密教の宗派で、弘法大師によって全国に伝わる。(816年高野山開創し835年高野山入山)御宝号 南無大師遍照金剛

鐘楼                            延命地蔵尊
            

「延命寺の言葉」
春の優しい光りも 夏の明るい日差しも 秋の寂しい影や 冬の厳しい風でさえも
全てを受け入れ包み込んでくれる 空間がここに。

逗子市と鎌倉市の市境に「浅間山」がある。武士の都として栄えた鎌倉は、中世の武士達が放った一瞬の光りが消えて、その残照に長い間埋もれるように
衰退して行ったのだという。

現在中世の残照は山間に残っている、逗子・鎌倉の山に「やぐら」と呼ばれる山肌をくり抜いた横穴式の墳墓が数ある。ここ浅間山にも昔の風情をとどめる「名越切通し」が抜けている、滅ぼし、滅亡していった中世武士達の栄枯盛衰、その記憶が山路に残っていた。

「名越切通し」鎌倉七切り通しの一つ、ここは、三浦半島に抜ける要路、三浦一族に備えた。要塞の鎌倉への騎馬の進入を防ぐ為のもので、岩壁には、手彫りのノミの跡が残っている。

               

日蓮上人は、鎌倉へ来て法性寺の岩穴に住んだが、食べる物が無く困っていると、この山に住む猿が畑にある。食べ物を持ってきたりして助けられたという、そこから寺の名も「猿畠山法性寺」となっている、猿と関係深い寺。仏殿の脇に小さい岩山があり石段を登ると山頂の見晴台に出るが、そこが「お猿畠」。法性寺は、日蓮の弟子 日朗が開山、鎌倉時代の古刹。逗子市久木の横須賀線踏み切りを渡ると黒門の大きな山門があり「猿畠山」の山号が架かっている。岩肌を露出した山路を登っていくと山の中腹に仏殿が現れる、人影は無く静か。

法性寺 山門                          拝殿
  

徳道上人 656年播磨の国で誕生。伝説によると仮死状態の上人が、あの世の閻魔大王に会い、大王から衆生済度の為33の観音霊場を広めよと宝印を授かり息を吹き返したとある。これが坂東33観音霊場と言われ、国巡礼の創始者とも言われている。

 「岩殿寺」坂東33ヶ所観音霊場第2番 曹洞宗 山号「海雲山」 本尊十一面観音通称岩殿観音 逗子八景の一つ。
寺伝によれば「長谷寺」の開基徳道上人が、ここで熊野権現の化身である老翁に逢い、霊地たるを知り、
数年の後に僧行基が訪れ十一面観音石像を安置したとある。

詠歌 「たちよりて 天の岩戸をおし開き 仏をたのむ身こそ たのしき」

岩殿寺 山門                         納経所
           

行基(668-749)奈良時代の百済系渡来氏族での高僧、広く諸国を巡り、橋、池や道路を開き社会事業によって多くの人を救った。
「行基年譜」によると、僧院34、尼院15、橋6、池15、堀川4・・・など。
いろいろ弾圧も受けているが、最後は朝廷側に取り込まれた。

泉鏡花(1873-1939)小説家、俳句、金沢生まれ、尾崎紅葉の「二人比丘尼懺悔」を読んで文学の道、紅葉の門下に入り書生生活。
処女作「冠弥左ヱ門」京都日出新聞連載「夜行巡査」「外科医」など。

逗子に滞在していた泉鏡花が岩殿寺を恋人としばしば訪れている。明治35年の37歳頃、境内に瓢箪池があるが鏡花が寄進している。

情緒ある100余段の階段                           拝殿
           

鎌倉時代には、源頼朝によって寺領が寄進されている、「吾妻鏡」にも源実朝らが、よく参詣していたことが記してある。
その後衰退したが1591年徳川家康によって再興した。

渡り廊下                                  仏像の祀られたやぐら
           

小雨混じりの古寺、人は一人もなく苔と新緑と石像、小鳥の囀りと泉鏡花が恋人としばしば訪れていたのが判る様だ。

奥の院への参道                                鐘楼
                  

鎌倉鶴岡八幡宮へ。

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