syuの日記・気まま旅

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平塚と有島武郎

2012-01-08 | 気まま旅

相模川下流域の相模港の市「平塚」から。

桓武天皇三世の孫、高見王の娘である平真砂子(眞砂子、政子)が都より東国へ下向の途上、相模国の海辺の里で長旅の疲れからか急な病を得て亡くなった。
土地の人々は幸薄い都の高貴な姫の死を悼み、遺体を里外れの松の大木の根元にねんごろに葬り、塚を築いて弔った。
時を経ていつしかその塚は風化して平たくなり、周辺の地域は「平塚」と呼ばれるようになったという。

平塚海岸に向かう駅前通り
    

中世初期は荘園で、江戸に入り東海道の宿場町として発展、渡船場で、米、木材、魚類の取引で賑わった。
戦中は海軍の火薬廠湘南工業地地域の要地となる。中央商店街の平塚七夕祭りは仙台に次ぎ盛大である。

有島武郎1878年~1923年 東京小石川区水道町に生まれ、明治20年学習院に学び、大正天皇の学友となる。
1895年「斬魔剣」を発表、学習院中等科卒業後札幌農学校を経て米国に留学、帰国後札幌農科大学予科教授。

1909年神尾安子と結婚したが、夫人は健康がすぐれず、ここ、平塚海岸杏雲堂病院特別病棟で療養。夫人の死後、作家生活に入る。

有島安子1888年~1916年  神尾光臣の二女。明治42年有島武郎と結婚。武郎32歳、安子22歳。
安子は三男誕生後、健康にすぐれず平塚海岸杏雲堂病院特別病棟で療養した。武郎はしばしばこれを見舞って慰めと励ましを与えていたことが
日記・感想・書簡をはじめ諸作品に書かれている。特に日記の中で病棟をスケッチして「悲劇の舞台」の文字を添えている。

   

平塚駅を海岸に向かうと国道134号線、左江の島方面、右小田原方面で横断すると、須賀湘南平塚ビーチパークで、浜辺の散歩道。
    

平塚砂丘からは、三浦海岸、伊豆半島、箱根連山など夕映えは絶景。
  

「海宝寺」は、浄土宗の寺院、十月の「お十夜」は、鎌倉の光明寺、八王子の大善寺と共に、三十夜よばれていた。
    

「乗蓮寺」は、真言宗の寺院、十一面観世音菩薩は、13年目ご開帳される。山門の仁王像は珍しい石造り。
    

  



次回は、平塚駅方面に。

    

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