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犬公方に仕えた側用人・幕臣「柳沢吉保」

2015-02-22 | 気まま旅
駒込は、文京区北部の本駒込と豊島区東部の駒込にまたがっている地区。JR山手線駒込駅を中心とする本郷台の住宅地は、1695年五代将軍「徳川綱吉」
から「柳沢吉保」へ別荘として下付さtれた土地に、千川用水を引いてつくった「六義園」がある。

「徳川綱吉」1646-1709 犬公方、三大将軍家光の4男、天下の悪法「生類憐みの令」を出した。犬を大事にすれば後継者に恵まれるを信じた。
世継ぎは出来ず甥の家宣(兄の子)綱重を養子にしている。

室町将軍8代目足利義政の時代、京は、応仁の乱による複雑怪奇な権力抗争が繰り広げられていたが、 関東でも鎌倉公方と関東管領などにより、
激しい主導権争いが勃発している。
関東においては、これが、戦国時代の幕開けで、争乱の中で、頭角を表したのが扇谷上杉家の家宰であった「太田道灌」
「享徳の乱」と続く長尾景春の乱で活躍し、主流ではなかった扇谷上杉家を関東の覇者へと引き上げるかと思えたが、 主家である扇谷上杉を凌ぐ名声と実力を得た、太田道灌はその主君に謀殺されてしまう。
最期の言葉とされる「当方滅亡」からは、非常な無念と怨念を感じる。その後、関東の覇権は、いづれの上杉も公方も握る事はなく、
後北条氏が手にすることとなる。
しかし、江戸を本拠地として活躍していた道灌は、現在の東京にも多くの足跡を残し、ここ「駒込」にも。

「妙義神社(駒込)」道灌が戦勝祈願を
駒込駅から本郷通りを王子方面に下る妙義坂の途中に、妙義神社の参道が、神社は、大和武尊伝説を由来とする小さな神社であるが、ここも道灌ゆかりの場所、 道灌は、足利氏、豊島氏、千葉氏との戦いの際し、この神社を戦勝祈願に訪れ、いずれも勝利を収めたという。
境内には、道灌を祀る末社がある。

                    豊島区最古の神社「妙義神社」
    

祭神- 日本武尊・ 高皇産霊神、 他二柱。例祭ー 9月中旬
日本武尊が東征の折、陣営を構えた処と伝えられ豊島区最古の神社。
太田道灌が出陣に際し、1471年、戦勝を祈願、その都度勝利を収めたことにより勝負の神として「勝守り」を授与していると云う。

「太田道灌」1432-86 主君に謀殺された名将「上杉(扇谷)定正執事・江戸城築城し拠点拡大武蔵国経営、内部の妬みで主君に謀殺「当方滅亡」と叫んだと云う。

                  太田道灌戦勝祈願した妙義神社
    

「駒込妙義坂子育地蔵尊」豊島区駒込2。本郷通り。
創建不明だが、寛文8年の1668年、に駒込の今井家が子孫繁栄を祈願して地蔵尊とお堂を建立したと云う。
以来地元有志によって毎月念仏供養が営まれたと伝えられる。
戦前は70坪ほどの境内に多くの供養石像が並列し、節分や縁日は賑わったと云う。
戦災でお堂が焼失した後、当地に駒込診療所が開設し、その一角に建立された。

現在は城官寺(北区上中里)の境外地蔵尊として祀られている「駒込子育地蔵尊」


「大国神社」 JR駒込駅前、西本郷通りを渡った所に鎮座。
小さな境内に、古びた社殿がある。創建は、1783年、で、祭神は大国主命。
1879年、細川潤次郎男爵の助力によって神社となったと云う。
江戸時代に徳川家斉が鷹狩りの帰りに立ち寄り、その後11代将軍になったことから、出世大黒(大国)とも呼ばれて甲子の祭日には参詣者が多いと云う。縁起物の木彫りの大黒天像は、参拝者に人気。小さな神社なので駅前にありながら目立たないが、春には桜の古木が美しい花を咲かせると云う。
鳥居の隣がJR山手線の「駒込橋」渡と「六義園入口」。

          11代将軍徳川家斉が鷹狩で立ち寄った大国神社
    

「駒込橋」
田端線が開通した時にできた橋。
現在の橋は 1991年に架け 替えられた。 橋 長. 幅 員、 約 30 m. 竣工年は、 初代、1903年の明治36年。
山手線の内側から跨線橋が架けられているスタイルは、巣鴨駅と同じと云う。

                     JR山手線陸橋
  

「柳沢吉保」 1658-1714  犬公方に仕えた側用人 甲府藩主、徳川綱吉が館林藩主時代から小姓として仕え、5代将軍と共に幕臣に登用されている。
絶大に権力を誇ったと云う。最盛期には、甲府15万石を与えられ老中まで累進、吉保も戌年、綱吉は、吉保の妻をみそめたとも云う。
綱吉死後は、六義園で隠居生活。


      犬公方に仕えた側用人・幕臣「柳沢吉保」


「特別名勝・六義園」江戸・明治・大正文化財都立庭園

都立9庭園、浜離宮恩賜庭園・旧芝離宮恩賜庭園・小石川後楽園・旧岩崎邸庭園・向島百花園・清澄庭園・殿ヶ谷戸庭園・六義園(面積87809m2)
入園料65才¥150。

1702年川越藩主柳沢吉保が自ら設計指導して完成した「回遊式築山泉水庭園」。
園は吉保の文学的教養による古今和歌集の「六義」にちなんでいると云う。園内88ヶ所の名勝と共に元禄時代を代表する和歌趣味豊かな大名庭と云う。
1706年、霊元上皇は、園内名勝の中から12境8景の20ケ所を選んで柳沢吉保に賜ったと云う。

2月は梅・3月から桜・4・5月がツツジ、サツキ・11月から紅葉もみじ、かえでなど。
    

加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を現出させたと云う。

芦辺の田鶴の鳴声に 夜わたる月の 影ぞさびしさ(和歌)歌から名付けらたと云う「渡月橋」大岩の重量感が
    

紀貫之が「古今和歌集」の序文に書いた「六義」という和歌の六つの基調を表す語に由来する。
六義園は自らも和歌に造詣が深かった柳沢吉保が、この「六義」を「古今和歌集」にある和歌が詠うままに庭園として再現しようとした。
その設計は柳沢本人によるものと伝えられている。

「つつじ茶屋」明治の建物・「滝見茶屋」石組みの景観が
  

1702年,に庭園と下屋敷が一通り完成すると、以後将軍綱吉のお成りが頻繁に行われるようになる。その回数は記録されているものだけでも実に58回もあり、吉保の寵臣ぶりもさることながら、この庭園自体が当時にあっても天下一品のものと評価されていた。
柳沢家は次の吉里の代に甲府から大和郡山に転封となるが、六義園は柳沢家の下屋敷として幕末まで使用、時代が下るにつれ徐々に荒れはしたものの、江戸を襲った度々の火災で類焼することもなく明治を迎えている。

池の周りは出汐湊・田鶴橋の妹・背山の中島・渡月橋でツツジの藤代峠(紀州)・吹上茶屋・石柱、、、。大泉水を見ながら
    

「雪吊」
樹木の幹付近に柱を立て、柱の先端から各枝へと放射状に縄を張ることを「りんご吊り」と いい、
雪吊の代表的手法である。これは、明治以降、西洋リンゴの栽培が日本で始まり 、リンゴの実の重さから枝を守るために行った初期の技法と云う。
金沢の兼六園を思い出した。

大泉水の湖畔に「出汐湊」がある、そこから中の島・蓬莱島・対岸の吹上浜が、今日は終わりかかった赤・黄色の紅葉
    

明治の初年には三菱財閥の創業者「岩崎弥太郎」が六義園を購入、維新後荒れたままになっていた庭園に整備、このとき周囲が今日見る赤煉瓦の塀で囲まれた。
その後は関東大震災による被害もほとんど受けず、1938年には東京市に寄贈され、以後一般公開されるようになった(有料)。
東京大空襲の被害を受けることもなく、造園時の面影を残したまま今日に生き延びた「六義園」は、1953年に特別名勝に指定。

園内で一番高い標高35m「富士見山」-藤代峠は和歌山県にある名から
    

「岩崎弥太郎」 1834-85 三菱財閥の創始者
土佐出身、土佐の開国論者「吉田東洋」「後藤象二郎」と交わって、長崎土佐商会に勤め、廃藩置県時。土佐藩大坂表の全財産を継承し、九十九商会
を興した。その後、三菱商会・海運業に乗り出し西南戦争内乱で新政府から汽船の無償の払い下げと助成金を受けて帝国郵便蒸気船会社との競争に打ち勝っている。為替業・海上保険など次々競争に勝っている。日本郵船設立し病で明治18年没。

「内庭大門」の広場にあるシダレザクラの大木は春の桜の時期に、レンガ塀は、岩崎氏時代に。
    

次回は、古河庭園へ。

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