syuの日記・気まま旅

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遺跡の曽我兄弟と梅園

2018-10-12 | 気まま旅
「酒匂川」
二級河川、静岡県内では鮎沢川と呼ばれる。
富士山の東麓と丹沢山地の西南部を主な源流とし、JR東海の御殿場線と並走するように流れ、丹沢山地と箱根山の間を抜け足柄平野を南下、小田原市で相模湾へと注ぐ。
山間部から平野部に入るときに流れをコントロールし平野の中央を流れ、耕地を潤すように文命堤(岩流瀬堤、大口堤)が建設。
岩流瀬堤は、流れをいったん断崖に導き、大口堤は断崖からの流れを平野中央に、上流の御殿場市付近では、富士山のなだらかな裾野が広がり、流れが穏やかで護岸工事が施され、河川の上流といった雰囲気は乏しい。
中上流域の小山町から山北町にかけての県境付近の方が、谷が深く大きい岩や石が見られ、下流の足柄平野付近では川幅も広がり、周辺には水田や住宅地が多くなる。

「JR御殿場線」
明治22年、東京 - 大阪間を結ぶ「東海道本線」の一部として開業し、複線化も行われていたが、昭和9年、丹那トンネル開通に伴い、東海道本線は熱海駅経由に変更され、国府津駅 - 沼津駅間は支線の御殿場線となった。
鉄道唱歌の歌詞は、丹那トンネル開通前に発表されたため、国府津駅 - 沼津駅間が現在の御殿場線経由となっている。
第二次世界大戦中の昭和19年、不要不急線に指定されて単線化され、レールなどの資材は回収されて他の路線の建設に転用。
しかし現在もなおトンネルや橋脚などに複線時代の面影が残っている。
大幹線である東海道本線から一ローカル線の御殿場線に転じたのちも、1992年に発生した東海道線来宮駅構内列車衝突事故の際などには、不通になった東海道本線のバイパスとしての役割を果たし、寝台列車が当路線経由で運行されたことも。
松田駅 - 御殿場駅間においては、JRの前身である日本国有鉄道の時代から小田急電鉄小田原線新宿駅方面からの優等列車の乗り入れが行われ、東京都心 - 御殿場地区間のアクセスルートのひとつとなっている。
JR化後の1991年、特急に格上げされ、それから2012年までの間は乗り入れ区間が沼津駅まで延長。

「二宮尊徳」 1787-1856 農政家 相模国足柄上郡の農家に生まれる。
16歳で両親を失う、後厳しい労働によって荒廃地を開墾し、それを小作人へ、農政の改革家として名声を得る。
関東の諸藩から招かれ財政改革を推進、56歳で幕臣に登用された。尊徳の少年時代は、重労働に従事し、夜は、「論語」を読み勉学し、灯明の油は、友達から菜種をかりて、夜間の学問に励んだ。百姓にも学問を・・。現在の小田原城内に、報徳二宮神社がある。天守閣南西、1893年建立・尊徳の遺品などが展示。
酒匂川と尊徳
酒匂川は地形的に急な増水が起こりやすく「暴れ川」として地域住民を困らせ ていた。
小学校の銅像で有名な二宮尊徳(金次郎)の生家は、酒匂川の栢山に、1791年の台風で酒匂川が増水し、堤が決壊し、生家も父の田畑も すべて流され
その後、父と母も亡くし、尊徳は親戚の家で苦労する。
元のような農地や家を取り戻すために、努力と工夫して 稼ぐことにより、自分の土地を復興させ、その後も、いろいろな事業で業績を。



私鉄小田急松田駅からJR御殿場線で曽我駅を下車しました。
「曽我」は、小田原の勝福寺・足柄の最乗寺・開成町・大井町・中井町・二宮町に囲まれた真ん中の村。

駅北東「曽我梅林」が、大磯丘陵の西・約2万本の「梅」が植栽されている。広さ20hã(2月から)




「最明寺史跡公園」花見見物
池の前の広場にはソメイヨシノとカンヒザクラ、池の周りにしだれ桜、山を 登ればオオシマザクラと一度にいろいろな種類を楽しめる。






                           JR下曽我駅舎


「傘焼祭」  5月の中旬
「曽我兄弟の仇討ち」で有名な曽我十郎と五郎の傘焼きまつり。
曽我兄弟が仇討の際、闇夜の中を松明代わりに傘を燃やして見事討ち取った物語に由来する祭りで、
松明行列、曽我物語の浮世絵の展示、傘焼きと竹燈篭、武者行列(歌舞伎役者参加)や子ども相撲等で2日間行われる。
(両日とも浮世絵の展示や傘焼きが行われると云う)













                        一月下旬の梅


「宗我神社」
曽我祐信が再興したとされる曽我郷六ヶ村(上曽我、曽我大沢、曽我谷津、曽我岸、曽我原、曽我別所)の総鎮守。
江戸時代には小沢明神と呼ばれていた。
1028年、曽我播磨守保慶の建立で、曽我氏の祖先を祀った神社。
明治に入り、六ヶ村それぞれの鎮守をこの社に合祀し「宗我神社」となる。
現在の社殿は、大正12年、関東大震災後に復興した。

宗我神社の神主の家に生まれた「尾崎一雄(1899~1983)」小説家。
昭和12年、第5回芥川賞を受賞し、昭和53年には文化勲章を受章。
作品の舞台は生まれ育った下曽我を中心とするものが多く、昭和の代表的私小説家として独自の境地を開いた。

   宗我神社の大鳥居付近に建立された尾崎一雄文学碑ー富士の姿を記した「虫のいろいろ」の一節が刻まれている。


 宗我神社-1028年宗我保慶が創立・1088年源義家奥州下向の際参詣・1416年小田原城主大森頼明鬼門鎮護、再建・1636年稲葉氏再建
      1869年「宗我神社」と定まる。
      「スガスガしく砂の上に吾等が祀り、農耕を豊かに」祭神ー宗我都比古命・女命






                       社殿




「五郎沓石」
曽我十郎祐成と五郎時致の兄弟は、
源頼朝が富士の裾野で巻狩りを行うので、この機会に日頃から親の敵と狙っている「工藤祐経」を討つ決心を。
五郎の沓石 城前寺近く. 曽我五郎がある時、足を患ったが、治癒した際、自分の体力が衰えていないかと心配になり、ためしにこの石の上で踏ん張ったところ、石が足形に窪んでしまったといわれ、その足形が石の真ん中あたりに残っていると云う。
この沓石には以前は足を病んだ人たちが祈願して治ったお礼に草履や草鞋などのお供え物が絶えなかったという。


「工藤裕経」 1147-1193 父宇佐美の工藤裕継・妻は伊東氏から、官位 左衛門尉
平重盛から源頼朝。
源範頼率いる平氏討伐軍に加わり、山陽道を遠征し豊後国へ渡る。
1186年、静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞った際に鼓を打っている。
1190年、頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に選ばれて参院の供奉をした。
1192年、頼朝の征夷大将軍就任の辞令をもたらした勅使に引き出物の馬を渡す名誉な役を担った。
祐経は武功を立てた記録はなく、都に仕えた経験と能力によって頼朝に重用されたと云う。
1190年、大倉御所で双六の会が催され、遅れてやって来た祐経が、座る場所がなかったので先に伺候していた
15歳の加地信実を抱え上げて傍らに座らせ、その跡に座った。
信実は激怒して座を立つと、石礫を持ってきて祐経の額にたたきつけ、祐経は額を割って流血、頼朝は怒り、信実の父・佐々木盛綱に逐電した息子の身柄を引き渡して祐経に謝罪するよう求めたが、盛綱は既に信実を義絶したとして謝罪を拒否。
祐経は頼朝の仲裁に対し、信実に道理があったとして佐々木親子に怨みを持たないと述べている
祐経の信実に対する振る舞いには、頼朝の寵臣として奢りがあった事を伺わせる。
「曾我兄弟の仇討ち」
建久4年の1193年、頼朝は富士の裾野で大規模な巻狩りを行い、祐経も参加、巻狩りの最終日の5月の深夜、遊女らと共に宿舎で休んでいた所を、
「曾我祐成・時致兄弟」が押し入り、
工藤祐経は、兄弟の父・「河津祐泰」の仇として討たれた。
祐経が仲介して御家人となっていた備前国吉備津神社の神官・王藤内も一緒に討たれている。
騒動の後、詮議を行った頼朝は、曾我時致の助命を考えたが、祐経の子の犬房丸(のちの伊東祐時)が泣いて訴えたため、時致の身柄は引き渡され、梟首されたとある。(吾妻鏡より)



「曽我兄弟」 兄祐成 1172-93 武士
       弟時致 1174-93 武士
伊豆の「伊東祐親の子河津祐泰」は、遺領争いが原因で、一族である「工藤祐経」に殺された。
河津祐泰の妻は、二児を連れて「曽我祐信」と結婚する。
兄祐成5歳・弟時致3歳・・・17年後、源頼朝が富士(富士宮)の裾野で巻狩りを行った夜、(白糸の滝)から宿舎に祐経を襲って父の仇を討つ。



兄祐成は、その場で、新田忠常に討たれる。
弟時致は捕らわれ、事情を述べたので、頼朝は許そうとしたとある。
しかし、工藤裕経の子が訴え殺されている。  頼朝は、兄弟の孝心に感動し、義父の「曽我裕信」に、兄弟の追善供養料として曽我荘の年貢を免除している。



「曽我物語」は、室町時代広く民衆に親しまれたと云う。



「城前寺」 曽我兄弟の菩提寺
寺は、1193年の建久4年、創建。
曽我兄弟の叔父宇佐美禅師が兄弟の菩提を弔うために庵を結んだのがはじまりとされる。
曽我城の大手門がこの辺りだったことから、城前寺となった。

                       寺の境内から海岸方面


                       城前寺の本殿


                       曽我兄弟の墓






               

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