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小田原 笠懸山ー足柄の旅10

2016-07-15 | 気まま旅
堅城の小田原城,栄華を誇った北条時代も、平家時代と同じ諸行無常の運命にあった。

武田軍に、小田原城包囲、1569年1月に北条氏政は駿河薩埵峠へ着陣し、興津において武田勢と対峙している。
同年8月に武田信玄は2万の軍勢を率いて甲府を出立、滝山城などの北条方の拠点を攻撃したのち10月には北条氏康の小田原城を囲んだ。
当時の小田原城は有名な惣構えが着工前であったが、かつて上杉謙信が10万以上の兵力で落とせなかった堅城である。
篭城策は手堅く、武田軍は包囲を開始して4日後に城下に火を放ち軍勢を引き上げている。

「三増峠の戦い」は、1569年、神奈川県愛甲郡愛川町三増周辺、結果は、武田軍の勝利、武田信玄対北条氏照、氏邦で、武田軍勝利している。


    


「関東の雄」と呼ばれた北条氏は、戦国時代随一の実力と勢力を誇る大名であった。
関東圏は独立した存在として考えられ、後に豊臣秀吉が北条氏を攻めたのは、北条氏の関東における存在感の大きさを無視できなかったためと考えられている。
北条市初代の北条早雲は、叔母が嫁いでいた今川氏の家督争いの解決を足がかりに関東を平定した下克上の見本といえる人物でした。
早雲の孫である北条氏康は、北条氏を最も栄えさせた大名であったといわれている。
税制をはじめとする行政の改革など、武力のみならず国力の強化にも努め、「領民含めて一枚岩の北条」を構築した名君であった。

本丸に一番近い堀跡      二の丸から本丸へ      石垣山方面     
  

北条氏康は1545年の扇谷上杉家の上杉朝定・関東管領の上杉憲政・古河公方の足利晴氏・今川義元の「北条包囲網」を切り崩して、朝定を討死させて晴氏に古河公方を引退させたが、上杉憲政(1523-1579)は越後の上杉謙信に支援を求めて落ち延びた1552年。
1550年代初頭、東国の有力武将として武田信玄・今川義元・北条氏康が突出した実力を蓄えて領土を拡大していくが、それぞれの軍事的計画を実現するために「甲・相・駿」の三国同盟を政略結婚を通して結ぶことに。
1552年には、今川義元の娘が信玄の嫡男・義信に嫁ぐことになり、1554年には北条氏康の娘が義元の嫡男・氏真に嫁ぎ、その12月に、武田信玄の娘が氏康の嫡男・氏政に嫁ぐことになる。
三者が相互不可侵の誓約を守る暫時的な同盟関係が成立した。(三国同盟)

                             珍しい「銅門」
    

1546年、武蔵国河越城の戦い、北条軍の勝利、北条軍・山内上杉家、 扇谷上杉家、 足利古河公方。北条氏康、綱成、 多目元忠
上杉憲政、朝定、 足利晴氏。8万0000。

「河越城の戦い」は、武蔵国の枢要な城であった河越城の争奪を巡って、河越城周辺で争われた一連の戦い。
北条早雲の嫡男、後北条氏の2代目当主北条氏綱は、武蔵国征服のため、武蔵国を支配していた上杉氏の居城・河越城に侵攻、1524年から4度にわたる争奪戦が展開された。
有名なのが、関東の政局を決定した大きな戦いとなった5度目の 1546年の戦いで、日本三大奇襲(日本三大夜戦)の一つ「河越夜戦」。
北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍が武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めた戦いである。

           本丸                       城内へ
    

「小田原評定」は、1590年豊臣秀吉連合軍が、北条軍の軍団がこもる小田原城を攻めた際、城中の北条氏家臣団の間で、戦い続けるのか降伏するかなかなか意見がまとまらず、いたずらに日時が過ぎて被害を大きくした。

秀吉連合軍は、箱根山中での持久戦を想定した戦略で、 小田原包囲 戦が始まると秀吉は、余裕を各方面に見せ付けるかのように、石垣山に石垣山一夜城を 築き、千利休や、淀殿ら愛妾を呼んでの大茶会などを連日開いた。
大道寺政繁は、 嫡男を脱出させ自らは激しく抵抗するも、連合軍の猛攻の前に降伏。

相模湾方面                        神社近くの曲輪北堀
    

石垣山は、笠懸山と呼ばれていたが、1590年 豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになる。
この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われている。
実際にはのべ4万人が動員され、約80日間が費やされたという。


本丸を囲む石垣            駅側は発掘調査中         貴重な資料が
    


箱根外輪山山麓の台地にある小田原城、土肥、小早川、大森、北条、大久保、居城。城下を堀と土塁で囲み総延長10KMの外郭の難攻不落を誇っていた。現在本丸近辺の発掘調査で立ち入り禁止区域もある。

庭園跡から出土したのは、池に水を引き入れるための石組水路や築山、庭石などで、礎石建物跡と石組水路の軸線がほぼ一致していることも分かった。石組水路には地元の風祭石や鎌倉石が使われているほか、五輪塔の火輪部分だけを貼り付けた護岸遺構も見つかっている。

発掘裏に弁財天石像が、           城山競技場方面、間に鉄道道路が
  


「北条氏政・氏照の墓所」市指定史跡。 小田原合戦の責任を取って自害させられた4代氏政と弟氏照 (八王子城主)は、この場所にあった伝心庵に葬られ、後に伝心庵は移転し、墓は放置されてしまい、稲葉氏の時代に、追福のために作り直されました。
しかし、それも関東大震災で埋没し不明となり、翌年地元の有志によって復興された。
墓地内には、五輪塔、笠塔婆型墓碑、石灯籠や、氏政・氏照がこの石上で自害したと伝わる生害石がある。

小田原駅に近い商店街の隅に
    

北条氏の寺がここに
  

「報徳二宮神社」は、明治27年 1894年、二宮尊徳翁の教えを慕う6カ国(伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、
翁を御祭神として、生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峰曲輪の一角に創建された神社。
二宮尊徳翁にあやかり学業成就・五穀豊穣・商売繁盛・経営などに御利益があるとされ、毎年多くの参拝者で賑わう。

城跡公園と隣接にある
    


次回は、湯本石垣山一夜城。

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