syuの日記・気まま旅

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1本1本植林した 沼津の千本松原(増誉上人)

2018-09-06 | 気まま旅
永禄3年ー1560年、今川義元の桶狭間での敗北による今川氏の衰退は、諸国の諸大名による今川領への進入を招いた。
西からは徳川氏、北からは武田氏が遠江、駿河に攻めてきた。また、東の後北条氏も武田氏に対抗して駿河に進攻した。
後北条氏と武田氏は駿河中部から東部にかけて数度の戦いを繰り広げた。
この頃の武田氏の、駿河における拠点の一つが三枚橋城で、三枚橋城は現在の沼津の駅南部にあり、本丸を二の丸、三の丸、外郭が狩野川に面した東南部を除いて同心円上に囲む構造になっていた。
城の築城時期については、1577年に武田勝頼が築城したという説と、信玄生存中の1570年には既に築城されていたという説があり、現在では後者が有力で、城の城主としては高坂源五郎が名高い。

この三枚橋城と川を挟んで対立したのが、後北条氏の戸倉城で、三枚橋城による武田氏との間で小競り合いが絶えなかったという。
1580年には、武田と後北条の水軍が重須沖の駿河湾で海戦を行っている。

1577年、武田勝頼が後北条氏の戸倉城に対抗して、沼津城を築城し、「高坂源五郎昌信」に守備させたといわれている。
しかし、「信濃史料」から、築城の時期は天正5年ではなく、元亀元年、信濃の諸士に城普請を務めさせている記事がみえるため、この時期に創築を求めようとする説が有力と云う。

沼津城の遺構はほとんど残存していないが、昭和48年ビル建築工事で発見された石垣が同城のものであったと推定され、石垣の組み方は戦国末期の実戦的築造であるという。

沼津と云えば、「江原素六と兵学校」、明治維新後はアメリカ視察を経て、徳川家が移封された静岡に移り住み、沼津兵学校、 沼津中学校などの創設に貢献。
明治23年には第1回衆議院選挙に当選し 、自由党、憲政会、政友会の議員を務め、麻布中学の初代校長歴任、銅像があると聞いたが不明。

沼津市内「医王山・東方寺」
    

乗運寺向かいには「醫王山東方寺」がある。 臨済宗の寺、ご本殿は、薬師瑠璃光如来像、古くは真言宗の寺で、江戸時代の明暦年間に
臨済宗 として再興された。

境内
    

寺で、塗ってよし、飲んでよしと言われた 万能薬「清明丹東方寺目薬」を製造販売していたと云う。
切疵や潰瘍に効くと言われて、一時は、この薬の売上で寺が維持されていたと云う。
しかし、薬事法の関係で昭和50年に製造販売を中止した。
沼津修養会がこの東方寺に置かれ、講話会や座禅会が開催され、沼津仏教会の中心的寺になっている。

境内
  

千本浜通りに、出雲の神を祀る「日枝神社」が、昔この辺りは、一面都の荘園で,大岡庄と呼ばれていたと云う。
狩野川がうねり,沼地のようなところを干拓し,次第に水稲を作れる荘園に作りあげて行ったのが,この神社創建の平安中期であった。

頼朝の頃、京都からの距離から想像するに,平安中期に,沼津あたりに着手していたとみても,それほど狂いはないと云う。

日枝神社                拝殿                      千本松原に
    

「長谷寺」は、稲久山と号し、本尊は十一面福聚自在観世音である。
825年、淳和天皇の御代に、弘法大師が勅を奉じて駿・豆地方を巡錫中、鎮護国家の祈願道場として創建したものだという。
昔、大和の長谷寺の末寺で、法相宗から真言宗に変わり、現在は時宗に属している。地元では、「浜の観音さん」と呼ばれ親しまれている。

公園前の長谷寺                                 堂
   

毎年4月に開帳の法要が営まれているが、その際120反の帆布で作られた大観音曼陀羅の開帳がある。
この曼陀羅は、その昔航海の難所熊野灘、遠州灘などの航海安全を念願して、船主はその無事帰還のお礼にと、船の命の綱と頼む帆に霊像を写して奉納したのに始まったと伝えられる。
現在寺に所蔵されている曼陀羅は、明治8年の正月に菊地金平受広(別名、一運斎国秀)がこの完成のために日頃の信仰から、斎戒沐浴し、およそ200畳敷き余もある綿布に半年の年月を費やし、原図のとおりに精巧緻密に写し上げたもの。

長谷寺は、江戸時代より駿河一国三十一番札所及び横道十三番札所となっている。

                        本堂


沼津「千本浜公園」は、東海道随一の景勝地である千本松原を有する沼津を代表する公園。
堤防上や松林の中を散歩・ジョギングする人など多い。数々の歌碑・文学碑がある。

千本松原(先人たちが一本一本植林)


風致公園で、沼津港の海岸に沿っている。面積 146000㎡と広い。

公園内 
    

「増誉上人の像」と千本松原は、1537年頃、駿河の今川・甲斐の武田と伊豆の後北条との戦いで無惨にも伐きり払われてしまう。
そこへ、一人の旅の僧がやって来ました。「増誉上人長円」です。
潮風の害を受けて困窮していた住民をみた長円は、人々を救うために経文を唱えながら、何年もかかって千本の松苗を植えた。
千本松原はこうしてできたもので、増誉上人長円は千本山乗運寺の開祖です。

増誉上人像は、千本浜公園のシンボルとして親しまれ敬われている。

東方寺前の千本山乗運寺開祖「増誉上人」が千本松苗を植えたと云う
    

角田竹冷句碑がある。
角田竹冷は、安政3年、富士郡加島村(現在の富士市)に生まれ、家が貧しかったので少年時代は魚町の商家の奉公をした。
明治5年、16歳の時に東京へ出て働きながら法律を学び、24歳で、弁護士の免状を取り、35歳で衆議院議員に当選、その後6期17年間にわたって議員として活躍。
俳句には幼少時から生涯を通じて親しみ、俳人としても名を成し、「毎日新聞」「読売新聞」の俳句選者にもなっている。
代議士就任中、新聞紙上に軽妙な時事俳句を発表したことは有名である。大正8年62歳で永眠した。
  句碑  時は弥生  瓢枕に  鼾かな。 亡くなる前日に。

1856年富士市苗村出身の 角田氏句碑


弥生~古墳時代の沢田遺跡等が。
大和朝廷が力をのばし、4世紀中ごろまでに日本を統一した。
伊豆沼津にも影響下に入り、スルガの国がおかれた。
近畿地方や瀬戸内地方において、3世紀後半から4世紀初めにかけ、古墳とよばれる「支配者の墓」がつくられはじめたが、5世紀の末から6世紀にかけて、沼津市にも松長の神明塚古墳、東沢田の長塚古墳、西沢田の子ノ神古墳など3つの前方後円墳などがつくられ、さらに、6世紀後半になると、市内各地に多くの円墳がつくられ、7世紀終わりごろには、横穴墳がつくられるようになった。

伊豆方面へ。

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