syuの日記・気まま旅

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源平 富士川の戦いの吉原宿と小さな原宿へ(達磨白隠禅師)

2018-09-04 | 気まま旅
「富士川」 山梨北西部・静岡県
南アルプス駒ケ岳西麓・釜無川源流部南流して静岡県駿河湾に注ぐ川ー山形最上川・熊本球磨川と富士川を日本三大急流と云う。
土砂の運搬量多く洪水に悩むー武田信玄の治水対策は知られている「信玄堤」。
江戸時代は、鍛沢河岸と岩淵を結ぶ舟運が。
長さー128km・流面3990km2
                      新富士川橋


「富士市」は、駿河トラフとその延長上の富士川河口断層帯に面しているため、プレート境界型の大地震「東海地震」の危険性が指摘されており、
国・県・周辺自治体とともに地震対策、特に津波対策に力が入れられている所。
江戸時代には東海道の宿場町の一つである「吉原宿」が存在したが、津波で2度壊滅的な被害を受け、その度に宿場の位置が内陸部に移動。

                      富士川


「富士川の戦い」は、 治承4年秋の夜、武田信義の部隊が平家軍の背後に回るために渡河を開始した。
この時、富士川の川面で静かに眠っていた水鳥の大群がこの物音に驚き、一斉に飛び上がった。この時の水鳥の羽音がすさまじく、これを源氏軍の夜襲と
勘違いした平家軍は大混乱に陥ったという。
武器も持たずに逃げ回る者、杭につないだ馬にまたがり、ぐるぐる走り回る者、等々、散々な混乱ぶりだったと「平家物語」や「源平盛衰記」は伝えている。
しかし、実際にこのような混乱ぶりがあったのかどうかは定かではない。この混乱ぶりには、軍記物の特徴である誇張がかなり含まれている。

士気も振るわず兵力でも劣勢に立たされていた平家軍が、源氏軍の襲来とともに、戦いらしい戦いもせずに潰走したことは確かであろう。
平惟盛が京に逃げ戻った時には、7万騎の兵力が僅か10騎になっていたという。

「平維盛」 1157-84 平清盛の嫡孫、重盛の長男、後白河法皇「五十の賀」で「青海波」を舞い、桜梅少将と呼ばれていた。
平家の総大将として「富士川の戦い」で潰走。「墨俣川の戦い」で勝利するが、倶利伽羅峠で木曾義仲軍に大敗する。
妻子を京都に残して高野山に出家する。都の空を望み妻子が恋しく那智の滝に打たれたと「平家物語」は、伝えている。

和田川          富士川の戦いの「平家越え橋」 


「平家越え橋」は、
平氏が敗走したのは富士市の新橋町辺りとされる。付近にはかつて「平家越」という小字があり、和田川にかかる平家越え橋の東詰めには「平家越えの碑」が建つ。
現在の富士川は市西端を流れており、碑とは6kmほど離れているが、これは江戸期の治水事業で川筋が西へ移ったため。
往時はもっと東を流れ、幾筋もの支流を形成していた。市内には地名に「島」とつく地域が多いが、これらは砂州・中州だったことに由来している。
吉原宿に近い。

平家越えの碑                   吉原宿跡


「源氏、頼朝」は、安房国平北郡猟島に。同地で先発していた三浦一族らと合流地元の豪族安西景益が頼朝らを迎え入れた。
頼朝は和田義盛を千葉常胤へ、安達盛長を上総広常のもとへ派遣。その他、小山朝政、下河辺行平そして豊島清元、葛西清重父子にも参陣するよう求め、
千葉常胤は、直ちにお迎えするとの返事を寄こし挙兵して下総国府を襲い、平家一族の目代を殺したが「結城浜の戦い」、房総半島に大きな勢力を有する
上総広常の向背には不安があった。

頼朝は、300騎を率いて安房国を出立。下総国府に入り、千葉常胤が一族を率いてこれを迎え、千葉氏の300騎を加えた。
武蔵国と下総国の国境の隅田川に達したところで、上総広常が2万騎の大軍を率いて参陣した。諸国の兵が集まり2万5000余騎に膨れ上がっている。
頼朝は武蔵国へ入り、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠らが続々と参じた。頼朝の軍は数万騎の大軍に膨れ上がり、
何らの抵抗を受けることな、源氏累代の本拠地鎌倉に入った。

この辺りは、安藤廣重も東海道五十三次の「吉原 左富士」として描いた景勝地だったという。
治承年の10月、源平両軍が対峙した古戦場と伝わっているが、現在は、和田川の薄汚れた川が流れているだけの埃っぽい工場地帯であった。もっとも富士川合戦とは名ばかりで、実際には古戦場と呼ぶほどの大規模な衝突は起きていなかったという人もいる。

浮㠀ヶ原、富士沼での源平の戦いが


「一宮賀茂神社」鎮座 身延町下山菖蒲沢 小さい神社。御祭神 天津日高彦穂瓊々杵尊。天平勝宝年間・七百五十年代の古い神社。
現宮司の始祖「稲葉左近」が土地の人とはかり創立したと伝えられている。
武田氏並びに穴山氏の尊崇極めて篤く河内領一七社の社頭として一ノ宮と尊称され、往昔葵祭には領内の神主ことごとく神事に奉仕したと伝える。
武田氏より三貫五百文地を、徳川氏におよんで同領の朱印地を代々受けている。
穴山氏より勝千代祈祷料として岩間の地に一九八アール寄進されていたが古文書だけ現存し場所は不明。

                             賀茂神社   
    

歴史と落ち着いた境内でした。小高い神社を背に鳥居の向かいの山々の景色は素晴らしい。

          拝殿内                      高台の神社前から
  

「八日市場八幡神社のケヤキ」
天然記念物 ケヤキは、樹高 30m/12m、目通り幹囲 6.5m/5.6m、推定樹齢 300年以上、身延町八日市場
案内板による。拝殿横のケヤキと鳥居近くのケヤキとある。

ケヤキの独立巨木が3本かたまっていたと云うが、残念ながら、3本とも主幹を途中で失っており、鳥居近くの1本は、1966年の台風、
拝殿横の1本は、1987年の突風の害を受けたと云う。
                            八幡神社
    

八幡神社隣の三守皇山長光院「大聖寺」ー真言宗醍醐派の寺、本尊 不動明王、
重要文化財・不動明王座像・県指定文化財・絹本著色地蔵菩薩十王図 ほか。

                             大聖寺
    

里山の木立ちにあり、歴史を感じる。
この寺は、1105年に、新羅三郎義光(八幡太郎義家の弟)によって開かれたという。
その後、義光の曾孫に当たる加賀美遠光が京都で宮中守護の任務につき、"鳴弦の術"で魔物を退散させた功で、時の高倉天皇から清涼殿に安置されていた不動明王と「三守皇山長光王院大聖明王寺」の勅額を賜わったと云う。
遠光はこれをこの寺に収め、以後は三守皇山長光院大聖不動明王寺と称し、不動明王はいまも寺の本尊として祀られている。

                            不動明王像
    

「身延町なかとみ和紙の里」

富士川の豊かな流れと、四季折々の自然に恵まれた身延町は、風雅な趣きを持つ西嶋和紙の名産地。
はるかな山々をいだく、のびやかな地にたたずむ「なかとみ和紙の里」は、工芸美術にふれる「なかとみ現代工芸美術館」、手漉きが体験できる「漉屋なかとみ」、全国の和紙をとりそろえた「紙屋なかとみ」がある。



現代工芸と呼ばれる分野は、紙・陶磁器・染色・漆から、ガラス・皮・金属など多彩な材料と技法・技術を駆使して生まれる作品。
美術館は、新しい時代の美をいつくしみ、現代に息づく工芸美術作品を展示・収集する個性的なカルチャースポット。
数々の特色ある展覧会を企画している。

和紙づくり体験もできる。¥1000から、入館料¥500.
                         庭園
  

「身延町中富」は、山間部で耕地面積がわずかであるため、林業や焼畑、狩猟、製紙原料となる三椏の栽培など山の資源を利用した生業が成立し、西島は紙漉職人が多く、和紙を生産している。
富士川沿いには青柳河岸(増穂町)に属した切石河岸・八日市場河岸や黒沢河岸(鰍沢町)に属した下田原河岸などの富士川舟運に関わる河岸があり、渡船に携わるものもいた。
富士川沿いには甲駿を結ぶ駿州往還(河内路)が通り、沿道は宿場や町場で賑わった。

                           石の彫刻  有料
      

                   「東海道五十三次・原宿」


東海道11番「箱根」・12番「三島」・13番「沼津」・「14番「原」」

                         白隠の産湯井。


長興寺 臨済宗妙心寺派 約640年前、室町時代、鎌倉・建長寺の開山、「大覚禅師」のお弟子の「友獄和尚」が行脚中に原の浜辺にさしかかり、海の響きに感応道交して身心脱落。
歓喜雀躍して、念持仏の虚空蔵菩薩を奉安し一堂宇を建立した。
その場所が砂州の上にあり、満潮の時にはあたかも海の上にあるかのように見えたので、山号を海上山とたという。
江戸時代なかば、白隠禅師の道友であった、大義和尚(当山準開山)によって清見寺末となり、妙心寺派となる。
海と御縁の深い寺で、海の神様、金毘羅山大権現 を鎮守神としておまつりしている。
昔、駿河湾ではマグロやカツオなどの漁が盛んでした。お祭りには大漁や海上安全を祈願する漁師が、地元のみならず西浦方面からも舟でお参りし、にぎわったと伝えられてる。
近年、金毘羅堂も再建され、毎年5月の最終日曜日に開催される例大祭には、赤ちゃんのすこやかな成長を祈願する恒例の「奉納泣きずもう」が 行われます。江戸時代、お隣の松蔭寺には、日本臨済禅中興の祖として仰がれる白隠禅師の指導を求め、全国から修行僧が参集。
その数、数百であったと記録されています。その折り、当山も宿坊として使用されました。修行者が松蔭寺へと参禅にかよった道が今も残っており「白隠道」と称されている。
             清見寺末、長興寺(白隠禅師の道友、大義和尚開山)
    

京都の「妙心寺」原の「松陰寺」は、全国大名、参勤交代時、あらそって面会を求めたと云う。
    

松陰寺・(白隠さん)は、白隠禅師(1685~1768)ゆかりの寺。
臨済宗の古寺で、歴史は約700年あり、名僧白隠が住職になる。現在は臨済宗白隠派大本山。

「擂り鉢の松」特に親交の深かった備前岡山池田氏は白隠の求めに応じて備前焼の大擂り鉢を贈りました。白隠はある日、庭の松が台風で裂けたため、雨よけにと擂り鉢をその裂け目にかぶせました。松はこの擂り鉢をのせたまま育ち、今も「擂り鉢の松」として親しまれています。原宿の旧本陣(渡辺本陣)の門と松が、松蔭寺内に移築されています。山門手前に「白隠の里案内図」が設置(2008年3月)されました

松陰寺(世界に知られている白隠禅師ゆかりの寺) 
    

                       境内と堂 
  

                       藤棚と本堂
    

「昌原寺」日蓮宗、
大仙院日耀の開山。開基は、徳川家康の側室、お万の方(養珠院日心大姉)である。
1615年 春、東海道原宿の渡辺本陣にお万の方が宿泊されたとき、南無妙法蓮華経のお題目が、聞こえ、ただちに本陣渡辺八郎左衛門ともない庵に入り、読経を聴聞されたのち、庵主、地主庄司七左衛門を呼び、こ の地に一山を構えるように要請した。
お万の方は、法華経の信者として朝暮に日蓮大聖人の御真影を敬拝していた。
この御真影は、日蓮聖人の自点眼尊影として、昌原寺落成のとき駿府城を通じて当山に寄進され寺宝となっている。
徳川幕府より境内地5反30畝、大門40歩のほか、御真影供養料田地1反5畝を賜った。
元和8年に念願が成就し、寺院を、建立している。

                       昌原寺                            
    

「浅間神社」-祭神・木花咲耶姫命(富士山のこと),愛鷹大神(愛鷹山のこと)
浮島ヶ原を最も早く開墾したのは遠州の浪人だった鈴木助兵衛であるという、父が安部郡上土を開拓した後二代目助兵衛が浮島ヶ原へ来てこの地を拓き助兵衛新田と称した。
原「浅間神社」は、1609年武田家臣の植松平次右衛門季重が創建と云う。
興国寺城は伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)の旗揚げの城として名高 い、根古屋と青野の境の篠山という愛鷹山の尾根を利用して築かれた山城で、後北条氏の祖である北条早雲が最初に城を与えられ、旗揚げした城。
城の南部には、原宿のある東海道に通じていて交通の便はよいが、途中に広大な浮島ヶ原湿原があったため、難攻不落の城だった。
太古から原宿の北西には富士の湧き水が溜まる浮島ヶ原湿原が広がり、これが地元民の生活に支障をきたしていたようである。
墓地は安全な高台に、生活の場には安全祈願の浅間神社を祀ったという。

                     浅間神社             
    

沼津へ

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