大江戸祭りは、今からおよそ286年前の 1719年 徳川幕府八代将軍吉宗の時代、時の町奉行 大岡越前守忠相の唱導で「いろは四十八組」の町火消が江戸に誕生し、さらに翌年、 本所・深川に南・北・中の十六組が生まれた。
江戸町火消は十組の大組に組織され、その中の「一番組」 「五番組」「六番組」が現在の「第三区」のルーツである。
明治初年に「第三大区」となった時、一番組から六番組(元や・万 ・ま・く・ゐ・お組)までで組織されていた。
七番組(元の組)は明治20年の名簿に記載されているので、その前に加入した。そして戦後、 昭和30年以前に八番組から十番組(元こ・ふ・け組)までが 加わった。しかしながら、新たに加わった渋谷区内の十番組は昭和50年代に、続いて九番組・八番組が平成に入ってから欠番になり現在に至っている。
須賀神社内の牛頭天王は、疫病を治す諸神を統率する神なので、疫病がはやる六月ごろに祭礼を行うのが慣わしになっていた。
祭礼は「天王祭り」と言われ、
麹町の「山王祭り」は、神田の「神田祭り」浅草の「三社祭り」、深川の「八幡祭り」と共に江戸の「五大祭り」として有名であった。
そしてく組は今も活動を続け、四谷の祭りを盛り上げてくれている。
今日は、神輿の大きさ大江戸一番、1月のどんどん焼で知られた「鳥越神社」夜祭に来た。
昔は、鳥越山であったが家康の令で崩された 寺領は、広大であったと云う 蔵前通りに面している
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「蔵前」、幕府は隅田川を埋め立てて幕府の米蔵を作った所「米蔵の前」と云う意味である。全国の大量の年貢米が貯蔵され、旗本や御家人
に給付米として支給されていた。
戦後は、国技館が建てられ、昭和60年両国に移転している。
都立蔵前工業高等学校(蔵高)は、台東区蔵前一丁目になる 拝殿前は列に
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鳥越神社の祭神は、日本武尊と天児屋根命に、東照権現(家康)また、八幡太郎義家が深く信仰したと伝わる神社である。
前九年の役征圧のため源頼義、義家父子がこの地を通った際、白い鳥が飛ぶのを見て浅瀬を知り大川(隅田川)を渡ることができた。それを白鳥明神の加護とたたえ、鳥越大明神の社号を奉ったと伝わる。
江戸時代までは約2万坪の広大な敷地だったが、徳川幕府にほとんどの土地を取り上げられてしまったと云う、神社が土地を失ったのは、
江戸城築城と隅田川や当時鳥越のすぐ近くにあった姫が池の埋め立てのためにたくさんの土が必要になり、鳥越の丘を崩して使用した。
その後、江戸城の城下町を形成するのと、旗本や大名屋敷の御用地とするために 幾度となく幕府に土地を没収された。
それまで、鳥越の山にあった鳥越大明神と熱田神社と第六天神の鳥越三所明神のうち、 熱田神社が今戸に、第六天神が蔵前にそれぞれ移動させられた。
鳥越大明神だけがその地に残されて、今の鳥越神社になった。 第六天神は今の第六天榊神社である。第六天榊神社の紋も鳥越神社と同じ七曜紋である。
下町の商店街、最近店が増えだしたという 狭い路地に屋台が
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鳥越町は、台東区の南部で、蔵前通りの北部で現在東京の地場産業地域の一角をなし、洋傘などの小規模工場や卸問屋が集中している。
鳥越出身に、
渡辺 篤 1898 - 1977年がいる。大正・昭和期の俳優は、西鳥越町の金物商の息子として生れ、幼少時に父が急死し、母と群馬県邑楽郡館林町)に移り、小学校を卒業後、浅草に丁稚奉公に出た後、館林で小さな店を開くが倒産。
1919年、上京し、浅草の役者専門の化粧品屋に勤め、役者志望が強かったので、「東花枝一座」の俳優募集に応募して入団する。
石井漠、高田稔の下へと移るが、オペラ俳優としては芽が出ず、1921年、創立したばかりの「牧野教育映画製作所」に入社、牧野省三脚本、沼田紅緑監督の「兄弟仲は」に江川宇礼雄と主演し、映画デビューするが、役らしい役はつかなかった。
徐々に喜劇を中心に主役も張るようになり、「ダン籠の鳥」などの斎藤寅次郎監督の「ナンセンス喜劇」に次々と主演し、喜劇俳優としての地位を確立する。1931年には、五所平之助監督の日本初の本格トーキー映画、「マダムと女房」に田中絹代と主演した。
古川緑波と行動を共にし、「緑波一座」の舞台や主演映画に出演。一座のナンバー2として、活躍する。戦後はフリーになり、喜劇や時代劇に多く出演したが、中でも黒澤明監督に重用され、「素晴らしき日曜日」から「どですかでん」まで重要な役どころで出演した。
特に「どん底」での演技は評価が高い、
町工場の住宅街を 「勢内連」町会の山車と神輿が
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「鳥越おかず横丁」という小さな商店街がある。
浅草橋駅と御徒町駅のほぼ中間あたりに位置する商店街で、神社の近くにある商店街。
もともと、町工場や個人商店などが多いエリアであり、忙しく働く近隣住民のお腹を満たすため、総菜や日用品を扱う商店が軒を連ねていた。
ただ、ここ数年の後継者不足、経営者らの高齢化に伴い、同エリアの商店の多くが閉店しているが、昔ながらの魅力と味を伝える店が今もなお残っており、懐かしい商店街、最近は、新しい店が少しずつ増えてきているという。
昔懐かしい、お面、焼きそば、金魚すくい、綿あめ、、、の屋台が所狭しと掛け声を
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鳥越神社大祭は、東京一の大神輿(千貫神輿)が見られ、6月の夜空の下、午後9時宮人で盛り上がりも東京一となる。
六ヶ町連合渡御と数も多い。 鳥越まつり 千貫本社神輿の渡御 ・宮元宮入・ 千貫本社神輿が神社へ・ 女性転倒とトラブル
5:21 宮出し 千貫本社神輿 発輿式 ・9:29 千貫本社神輿の渡御。
ねじり鉢巻きに「嶋」の半纏、せやーせやーと町内を 女性も男性に混じって元気に
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御本社宮神輿は、台輪幅4尺3寸の元祖千貫神輿で有名。
狭い下町の町内を渡御するので、大きな胴体に比べ太く短い担ぎ棒のために担ぎ手一人の負担も大きくより重く感じるので、昭和の初めよりその重さから都内で最も重い神輿と言われていた。
毎年氏子により担がれ、氏子町内を渡御される神輿としては都内でも最大級で重い神輿である。
本社神輿は例年、日曜の朝6時50分(発輿式は6時半から)より宮出しされ午後9時に宮入となり神社に戻る。
本社神輿の列の先頭には、猿田彦(天狗)や、手古舞連、子供たちの持つ五色の旗が歩き神輿を先導し、夜8時過ぎの宮入道中では神輿の周りに提灯を付け、高張り提灯に囲まれ宮入りする。
その荘厳かつ幻想的な姿により、夜祭りとしても有名で、暗闇の中を提灯の灯りがユラユラと揺れる事から、お化け神輿の別名もある。
平成9年(1997年)9月14日に、東京湾横断道路アクアラインの開通を記念し、「関東三大宮神輿」として浅草・鳥越神社の本社神輿、深川・富岡八幡宮の二之宮神輿、木更津・八剱八幡神社の宮神輿の連合渡御が行われ、木更津の地で合同奉舁が行われた。
宮元大神輿が休息 宮元は、鳥居の近く 千貫神輿は重そうである
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千貫神輿は、祭礼などで使用される神輿のうち特に 大きいものを「千貫」という。
重さの単位であり現在では約3.75tに相当し、千貫 で約3750kgとなるが、例えて大きく重いという意味もある。
鳥越千貫神輿は、東京一と云う。
明かりが灯る夜祭千貫神輿神輿 神社近くで気合が
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担がれた神輿の屋根の鳳凰が安定し、左右のバランスの良が要求される。即ち力が均衡しているかである。
戦前生まれの子供神輿は、砂詰神輿で重く、身長、力がアンバランスだと怪我人が出た。担ぎ方も両肩を使っていた。
動員のお巡りさんが「危険です歩道に」見物者には耳に入らないようだ
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午後9時過ぎに、熱気のなか、閉鎖された、蔵前通り鳥居神社前で降ろされ、担ぎ手と観衆で三々手拍子が繰り返された。
見物内で罵声が、警護の警察官約50人と警護車からスピーカーで注意を、担ぎ手と見物人とトラブルが
千貫神輿が左右に 女性の悲鳴が 日常車の多い蔵前通り
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車の多い蔵前通りの車道は、完全進入停止になり、提灯と住宅の明りと人人の波でごった返していた。
先頭誘導者の合図で神社鳥居前で降ろされる 午後9時過ぎ
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帰宅は11時過ぎ、浅草・鳥越は、これで終わります。