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八犬伝の館山城(里見城)

2013-06-02 | 気まま旅

房総里見氏系図  義実ー成義ー義通ー義豊
              -実尭ー義弘ー梅王丸
                    -義頼ー義康ー忠義


下野、古河公方足利政氏とその子の足利高基が不和になると、高基の弟・空然は還俗して・足利義明と名乗った。義明は放浪の末、上総国真里谷武田氏五代当主の真里谷信清によって下総国小弓城に迎え入れられる。

足利義明は真里谷氏に加え、里見氏等に擁立されて小弓公方と称され、古河公方や千葉氏と対立して、鎌倉占領を目指した。
ところが、小田原北条氏綱が台頭して鎌倉や武蔵江戸城を占領すると今度は足利義明と北条氏綱の関係が緊張する事になる。

北条氏綱は当初は古河・小弓公方の争いには中立的な立場にあったが、足利義明が里見氏や真里谷氏の内紛に介入して江戸湾一帯にまで勢力拡大を図ると、亡命してきた真里谷信隆(信保の庶長子)を支援して対決の姿勢を見せた。
更に古河公方足利晴氏(義明の甥)も足利義明や山内上杉家との対抗上、北条氏綱と同盟を結んだ。
更に1537年2月に武蔵・下総の国境にあった葛西城が北条氏の支配下に入っており、足利義明としても北条氏の脅威を感じるに至った。
ここにおいて、足利義明は北条氏綱との戦いを決意する。

1538年10月、足利義明は里見義堯・真里谷信応ら軍1万を従えて、国府台城に入った。
一方、北条氏綱も嫡男北条氏康や弟の北条長綱ら2万の軍を率いて江戸城に入った。(後の国府台公園で取り上げます)

1556年、里見水軍を率いて北条水軍と戦い、大勝している、「三浦三崎の戦い」。北条水軍が暴風雨のため沈没したり沖に流された
北条海岸


安房里見氏は、戦国時代に安房国を掌握、房総半島に勢力を拡大し、戦国大名化した氏族である。
「関東副帥」(関東管領の異称)もしくは「関東副将軍」を自称した。
安房里見氏初代・里見義実は、結城合戦で討死した里見家基の子息とされる人物で、安房国に移り安西氏を追放して領主となったとされる(里見義実の安房入国伝説)。
しかし、義実の出自や安房入国の経緯についての詳細は不明である。同時代史料で確認ができないことから、安房里見氏の系譜上で初代とされる義実、2代とされる成義を架空の人物とする説もある。
天文の内訌の経緯や第二次国府台合戦の状況など、江戸時代に記された軍記物の記載を土台としていた従来説は、近年の史料発掘と研究の進展にしたがって大きな疑義が示されており、再検討が行われている。

ここが、何故「北条海岸」と呼ばれているのか?。


「南総里見八犬伝の舞台」館山城。
伏姫16歳の秋、飢饉に乗じて安西景連が里見領に攻め込む。落城の危機に瀕した父は 、敵将の首を取ってきた者に伏姫を与えると言う。
八房はこれを実行し、約束の履行を 求めた。このとき「伏姫」の名は「人にして犬に従う」・・・・・。

中国の豪傑小説「水滸伝」の影響を受けた伝奇小説    里見義実氏の娘伏姫と八犬士のゆかりの地


「館山城の城山」は、戦国大名、「里山氏」の居城跡、明治時代に入り山麓から里見氏以前の遺跡「中世の五輪塔や陶磁器が張り出されている。古くから武士の城館であったようである。
里見氏が1614年に移封された後、江戸時代後半は、稲葉氏が館山藩を立てて、城山南麓に陣屋を築いている。

城山入口付近                                茶店も
    

犬山城を模した天守の、館山城は、1578年、安房岡本城に居城していた里見義頼が重臣に築城を命じ、1580年年には城番を置いた。
子「義康」が、1588年に大規模な改修を行い、1590年に完成させている。
この年の、「北条・小田原の役」で、里見義康は三浦半島・鎌倉方面に進軍したが、この行為が豊臣秀吉に「関東惣無事令」違反として、
また参陣が遅れたことを咎められ、上総を没収され、安房一国のみを安堵される。
1600年の「関ヶ原の役」では、徳川家康の東軍に属して宇都宮を守った功により、鹿島三万石を加増された。
城山周辺に惣構えの工事を行い、鹿島領民が担当した堀は「鹿島堀」と呼ばれ、1614年の「大久保忠隣事件」で、
忠隣の孫娘を室にしていた「里見忠義」は、嫌疑をかけられ、城の無断改修と召抱えの家臣が多すぎることなどを理由に安房92000石を没収、鹿島 30000石の替え地として伯耆国倉吉に事実上の配流となる。
「忠義」は、倉吉の地で失意のうちに死去し、里見氏は途絶えた。
このとき殉死した八人の忠臣の遺骨が密かに館山に持ち帰られ、城山の地に葬られた。
これが、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」。この八人の忠臣をモデルにしたと言われる。

里見義頼築城                   1588年義康が完成
    

城山の途中に博物館                           里山には住宅街が
  


鹿島堀も一部を除いて埋め立てられ、城郭遺構そのものはごくわずか、ほんの少しだけ「戦国大名」里見氏のスピリットに触れられる場所は、本丸南東方面の尾根筋の道で、中世城郭になっている、尾根筋を削平した馬蹄段、堀切、里見氏お得意の垂直削崖などを見ることができる。

また、城下の御霊山周辺には空堀、また「里見義康」の墓のある「慈恩院」周辺には惣構えの鹿島堀がわずかに残り、周囲の水田もよく見ると横矢状の歪みの面影があるという。
尾根筋には、里見八犬伝のモデルになったといわれる、八人の殉死者の墓もある。

館山城公園は、「南総里見八犬伝」を偲ぶもよし、戦国大名里見氏の栄華盛衰を偲ぶもよし、はたまた豊臣、徳川の二大権力の謀略に想像を馳せるのもよし、犬山城を模し天守であっても、残された遺構がごくわずかであるが来た価値はあった。

犬山城を模した館山城                 北条海岸が                 天守から市内も
    

安房の雄・里見氏の最後の居城「館山城」別名:里見城は、城の種別 平山城(丘城)、築城時期、 1590年、築城者「里見義康」

遺構ー 曲輪、堀切、空堀・水堀の一部、模擬天守。

里見城屋根               伏姫                   名「人にして犬に従う」
    

城内に「浅間神社」鳥居と立派な彫刻の拝殿が、聞くところでは、名工と云われている後藤義光の門人で、後藤喜三郎の作「草薙の剣」で
日本武尊が、草原焼き払われる時、この剣で草を払いのけて助かったという剣の名が付いたという。
なぜ、浅間神社なのか、この地富士見ヒャケイの選ばれている所で、1782年に富士浅間宮として記載されている。
豊漁・五穀豊陵祈願。

神社から見た館山城                         城内の浅間神社
    

「南総里見八犬伝」概要は、
「結城の戦い」に敗れた若武者「里見義実」房総へ落のびる、やがて滝田城主に(JR岩井駅手前三芳村)、隣国の館山城主「安西景連」の攻撃
愛犬八房の働きによって勝利、その功績で「伏姫」を連れて富山の洞窟(JR岩井駅富山町)に籠る。姫を取り戻すため許婚の「金碗大輔」は、
鉄砲で八房を打ち殺すが、伏姫にも傷を負わせてしまう。伏姫は純潔を証明するため大輔と父親の前で自害する。
この時、役の行者から授かった護身の数珠から、八つの玉が飛び散った。玉が八方に散り「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の霊玉をもつ
「八犬士」が登場する。
その八犬士達が華々しく活躍する。八犬士に巡り合った金碗大輔は、八人を「里見義実」の元へ連れ帰り、里見家の家臣となり、危難を救う
義実の八人の孫娘をそれぞれ娶らせ、子供達に家督を譲り、富山村の山中へ姿を隠して仙人となる話。



次回もは、八犬士のモデルになった根古屋の古墓から慈恩寺へ。





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