足尾山地最南端、日本三大霊山「岩舟山」-標高172.7m-
東北・太平洋沖大地震によって西側140mが崩れた。
江戸時代から始まった「中腹採石・採堀」され、城・神社仏閣の建築で、荒々しく削り取られ、岩肌が露出している。
採石された石は、渡良瀬川を利用して関東各地へ運ばれた。
岩舟人車鉄道が早くから活動し、JR両毛線・私鉄東武鉄道が利用されている。戦後も、ピーク時毎日ダンプ2~300台が出入りしたと云う。
近くに「岩舟石資料館」がある。
JR岩舟駅
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「岩舟町」-栃木県下都賀郡ー県南部でかって「東山道」が通り、万葉集等の読まれた三毳山東麓付近に「三鴨駅」があったとされる。
岩舟の石は、土止め石垣用として採石が行われたと云う。現在は休止。
駅前の案内板
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霊魂安らかな山と人々の祈りを集めた霊山
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「岩舟山・高勝寺」ー天台宗の末寺ー
岩船山は、山全体が一艘の船の形をしており、子供の霊を供養する場所でもあると云う。
一説に、「位牌」が訛って、「岩船」となったとも言われている。
本尊は、子育・子授地蔵としても有名であり、徳川四代将軍は岩船地蔵の申し子といわれている。
享保年間に諸堂の大改修が行われ、1751年、に三重の塔が建立された。
その頃、岩船節といわれる念仏が、関東一円に流行したといわれ、
昭和16~7年頃まであった。
踊り念仏は、その名残といわれている。ー案内看板より。
宝亀2年770年頃ー弘誓坊明願が開山
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三重の塔
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恐山・大山・岩舟山ー日本三大地蔵
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本尊ー生身地蔵尊(岩舟地蔵尊御和讃)
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「日本三霊山」
霊山の三大として富士山・白山・立山を束ねた名数で、略して三霊山とも呼ばれ、これとは別に日本三大霊山という名数も存在し、
富士山・白山に加えて立山と御嶽山(長野県の御嶽山)のいずれかを挙げて三大としている。
ここ、栃木県の岩船山を日本三大霊山の1つに入れることもあると云う。
さらにはまた別に、日本三大霊山は、恐山・比叡山・高野山の3霊山を束ねた名数とする例も見られる。
(恐山・白山・立山を束ねた日本三大霊場および、恐山・川原毛地獄・立山を束ねた「日本三大霊地」とは別ものである)。
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慈覚大師が修業した「大慈寺」
場所-岩舟町小野寺
737年の天平9年、行基菩薩によって建てられた古刹。
817年の弘仁8年、「最澄」により宝塔(全国6か所に建てたうちの一基)が建てられた。
平安時代随一の学僧といわれる慈覚大師円仁が、9歳から6年間ここで修行。 寺には、指定文化財の相輸とう(そうりんとう)や華鬘(けまん)等
多くの文化財が保存。
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岩舟下野は、カタクリの花で知られる、万葉集で詠まれた「三毳山」。
我が国最も古い歌集、奈良時代の終わり頃出来たと考えられている「万葉集」
全部20巻・4540首(大伴家持・万葉集編者~785年・政争の中和歌に潤いを求めた)
下野三毳山2首
下野の三毳山の小楢のすまぐはし児ろは誰が筍たがけ持たむー誰と結婚するのかな。
下野の安蘇の河原は石踏まず空ゆと來ぬよ汝しなつが心の告れー石を踏まずに空を飛んで来ました、貴方の心を云って下さい。
岩船山と両毛線を挟んで向かい側,佐野町と岩船町の境の山が三毳山、安蘇の河原は、旧田沼町・佐野の秋山川であろうと云う。九州防備にあたった
「防人」の歌に下野国出身の防人歌が
旅行に行くと知らずて母父に言申さずて今ぞくやしけー二度と会えない旅に行くと知らず両親に別れの言葉も云えなかったのが悔しい。
私鉄東武日光線「静和」駅ー無人
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私鉄東武線は、平成になって、杉戸ー新鹿沼間開業し、平成15年営団地下鉄「半蔵門線で栗橋から中央林間・19年日比谷線中目黒も直通
都心ー埼玉ー栃木を結ぶ通勤路線と日光・鬼怒川・会津方面の観光路線が結ばれた。
「日光線」は、伊勢崎線内ー東武動物公園(昔の杉戸)-南栗橋ー栃木ー新栃木ー下今市ー東武日光。
渡良瀬川
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栃木県下都賀郡藤岡町の町名は、渡良瀬川の川辺を意味する「縁丘」が転訛したと云われている。
中世に「冨士氏」から改姓した「藤岡氏」が集落を形成しととある。
近世になり大部分が「古河藩」領で、渡良瀬川の河港・市場町として発展を続けた。
現在は、埼玉・栃木・茨城県が、川を境に別れ、渡良瀬川は、茨城県古河市で「利根川」と合流する。
渡良瀬川
北関東を流れる利根川水系利根川支流の一級河川である。流路延長107.6kmは利根川の支流中で、鬼怒川、小貝川に次いで第3位の長さを誇り、流域面積2,621km2は利根川の支流中では最大。
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埼玉県加須市大利根町・栃木県下都賀郡藤岡・茨城県古河市(利根川は千葉県銚子市へ)
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「永井寺」-曹洞宗・龍渓山ー院号大雄院
1626年古河城主「永井直勝」が開基(子永井尚政が父追善供養で建立ー永井家菩提寺
この寺の立地は、古河城観音寺曲輪の堀を挟んだ北側に隣接し、「追手門」に近く、武家地。
「古河城」本丸など中心地は、現、渡良瀬川内になっていたと思われる。
本尊ー釈迦如来
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「文化財」-初代永井直勝の墳墓・宝篋印塔、第二代尚政と第三代尚征、弟の尚庸の供養塔、 林羅山撰文の直勝顕彰碑
小山霞外の墓ー江戸町(中央町)の小山家屋敷にあったが、昭和24年に改葬された。
子の梧岡、孫の遜堂の墓もある。(市指定文化財)ー霞外は幕末に活躍した著名な書家であり、自在な唐様の書風を確立。門人は古河・江戸にて数千人に及んだという。市指定文化財(有形民俗)となっている日光街道道標は霞外の揮毫による。
小高益卿の墓ー土井利厚の時代に、古河藩の藩校である盈科堂で教授を務めた。
絹本着色永井直勝肖像画ー晩年の衣冠束帯姿が描かれている。小牧・長久手の戦いの戦傷により左人差し指を失った姿で、一幅 縦137cm、横82cm。
後陽成天皇口宣案ー1595年、永井直勝が豊臣秀吉の推薦で官位を授けられた時、従五位下と右近大夫おのおのについて、1通ずつ残されている。
永井尚政永井寺定書ー1652年、山城(京都)淀城主となっていた前古河城主・永井尚政が定めた永井寺の規則。
幕府や古河城主の法度に背かないこと、牢人には宿を貸さないことが定められている。
本多忠良寄進状ー1732年、古河城主の本多忠良が実母の墓所を設ける際に、畑5反・白銀25枚を寄進したときのもの。
伊藤・平井寄進状ー1759年、古河城主本多氏の石見国転封の際に、家臣2名が祖母と親の菩提を弔うように畑を永仙院に寄進したときのもの。
永仙院が廃寺になった際に引き継いだと考えられる。
遠藤与五衛門寄進状ー1759年、古河城主本多氏の石見国転封の際に、家臣であった遠藤与五衛門が祖父と父の永代供養料として、畑を永仙院に寄進したときのもので、永仙院が廃寺になった際に引き継いだと考えられる。(以上全て市指定文化財)
文机ー 古河城御三階櫓が取り壊されたとき、その扉を再利用してつくられたと伝わる文机が残されている。
本殿
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次回は、古河市内へ。