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井伊家30万石・彦根城

2014-09-01 | 気まま旅

彦根市滋賀県中東部琵琶湖東岸の市、市名は、活津彦根命。古くから人は住み、縄文・古墳の遺跡や条里遺構あり、荘園も置かれている。
「井伊直政」が佐和山城に封ぜられ、その後子「井伊直継」は、「彦根山」(150m)城の移築、1603年から20年の歳月をかけた。
彦根は、中山道宿場と松原湊水陸交通の結節点、東西の結びつける地点。

「井伊直弼」 1815-60 桜田門外に散った大老、「井伊直中」の14男、安政5年大老の座に、「日米修好通商条約」締結させ、「徳川家茂」将軍
継嗣決定、反対派の大名や志士を厳しく処刑した。「安政の大嶽」、水戸浪士らに江戸城桜田門外で襲撃され落命した。
老中「安藤信正」は、直弼の死を秘匿、切られた首など縫合したと云う、井伊家の断絶は免れたと云う。

「埋木舎」
井伊直弼が、青春時代を過ごした館。舎は、中堀の外にある。「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」と云う和歌を詠んでいる。自ら「埋木舎」と名付けている。禅・国学・和歌・能と狂言・居合・茶の湯「なすべき業」に全力を傾けたと云う。
兄「直元」病死、35歳で藩主に。46歳で生涯終えている。

「井伊直弼」、青春時代の館。舎は、中堀の外、「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」と和歌を詠んだ。
    

彦根城・金亀城とも云う、彦根藩35万石の政庁、17世紀直継・直孝の二代にわたって築城。
井伊家は、京都の守護と西・中国を抑える任務を負っている。
手伝い普請は、伊賀・伊勢・美濃・若狭・越前など7国12大名が命じられた。

明治9年,創建、「護国神社」。 明治戊辰の役 から西南の役、日清・日露戦争さらには大東亜戦争に至る県出身の戦没英霊を祀る。
    

「井伊直政」 1561-1602 徳川四天王の一人、箕輪城主(直親の子)、「小牧・長久手の戦い」先鋒「池田恒興」を撃破ー12万石拝領。関ヶ原の戦い
軍功で、近江国佐和山18万石を与えられた。
秀吉の母、大政所を護衛している。秀吉が直政労をもてなした折、裏切りの「石川数正」も同席し、直正は、「主君に背いた卑怯者とは、どうせきしたくない」と放言したと云う。秀吉は豪胆さを褒めたと云う。関ケ原の戦いの古傷が悪化し死亡している。

三階三重の天守・京極高次が築いた大津城から移築ー1607年頃 姫路城・松本城・犬山城・こくほう四城の一つ


1600年,上野高崎城主で12万石を領していた徳川四天王の1人・井伊直政が関ヶ原の戦いの戦功により18万石に加増され、石田三成の居城であった佐和山城に入封して佐和山藩を立藩。
直政は賊将・石田三成の居城を嫌い、琵琶湖の湖岸の磯山に新城建設を計画したが、建設に着手する前に戦傷が元で 1602年に死去した。
嫡男直継(直勝)が相続すると現在彦根城が存在する彦根山に新城の建設が開始され、1606年 完成し彦根城に入城。

本丸西三重櫓(重文)10mいじょうの石垣が、春は桜の花見スポット


1615年、直継は病弱で大坂の陣に参陣出来なかったことを理由に、直勝と名を改め上野安中藩に3万石を分知され移封、
代わって参陣し活躍した弟の直孝が藩主。この時点で直継の2代藩主としての履歴は抹消され、
井伊直孝を2代。
直孝は幕閣の中枢としての活躍を認められ、1617年・1633年 の3度にわたりそれぞれ5万石の加増、よって30万石の大封を得る大大名となる。
更に天領の城付米預かりとして2万石(知行高換算5万石)を付与され「35万石」の格式を得るに至った。

彦根藩井伊氏は幕閣の中枢を成し、雅楽頭酒井氏・本多氏など譜代有力大名が転封を繰り返す中、一度の転封もなく石高も譜代大名中最高。
直澄・直興・直幸・直亮・直弼と5代6度(直興が2度、直孝が大老になったかどうかは賛否両論である)の大老職に就いた。

石垣は、大小の石を取り混ぜた積み方で、堅牢なことで知られている。明治政府の廃城令や戦災を免れている。往時の面影が今に伝えられた名城。

太鼓門櫓(登城合図太鼓が)・天秤櫓(非常時、落とし橋)・馬屋・表門、、、、重文。
    

「外堀」は、彦根港に。「中堀」は、京橋(旧西郷屋敷長屋門)・船町口(滋賀大学)・黒門橋(楽々園など)・佐和口、馬屋、「内堀」、
表門橋(表門山道)・ 大手門橋(鐘の丸)の橋が架かっている。

内堀内に、天守本丸・西の丸・西の丸三重櫓、太鼓門櫓・時報鐘・天秤櫓・茶室・観音台梅林など。

内堀・中堀・お浜御殿~琵琶湖彦根港へ「埋木舎」と「旧池田屋敷長屋門」と「護国神社」は中堀の外にある。
    

天守(国宝)
石垣の上に三階三重が聳えている。(京極高次が築いた大津城)から移築、1607年頃完成した云う。
国宝四城と云えば、姫路城・松本城・犬山城が指定に。

「西の丸三重櫓」
本丸西側一番外れの三重櫓、10m以上の石垣の上に築かれている。この一帯は、桜の名所。

「京橋口. 京橋門」左折れの枡形門。大手門へ向かう、二重櫓門の厳重な造り、京橋門を入って右(南)は 家老・長野伊豆屋敷跡、左(西)は老中・西郷家屋敷跡に。

中堀・いろは松・佐和口多門櫓・開国記念館・内堀屋形船乗船場・表門橋で城内に


「太鼓門櫓」
本丸への最後の関門太鼓門櫓、登城合図用の太鼓の音の工夫されている。

「天秤櫓」(重文)
廊下橋(非常時落とし橋)中央に建てられ、天秤のような形をしている所から名が、この形は、彦根城だけという。

表参道・石段を
    

内部は、隠し部屋が四か所、4~5人が入れる広さ。「鉄砲狭間」外からは見えず、緊急時突き破る仕掛け、矢狭間と75ヶ所あると云う。
窓も寺院建築に見られる「花頭窓」、北側一階の壁は、二重壁で間に栗石を詰めている、防弾に効果あると云う。

          城内の隠狭間・木造の柱など細かい構造が見られる。
    

緑の小高い丘に白亜の天守を頂き、二重の堀に囲まれた城郭が、昔のまま残り、特に、月明かりに浮かぶ姿は美しく「琵琶湖八景」の一つに。

石田三成五層天守の佐和山城跡ハイキングコース・芹川・琵琶湖と歴史と城郭建築の美の古城「彦根城」
  

外堀戸内堀の間に「楽々園」
1813年、11代藩主「井伊直中」の隠居に際して大規模な増改築が行なわれ、その後間もなく楽々園は最大規模に膨らみ、その大きさは現在の建物のおよそ10倍もあったと云う。
現存する「御書院」も、その際に新築されたもので、御書院に面して新たに「庭園」が築かれ、枯山水となっている庭園が、
古絵図を見ると満々と水をたたえている。
御書院の奥はしだいに渓谷の風情をなし、「地震の間」「楽々の間」などへと連なり、地震の間は耐震構造の建物であるため今日そのように呼ばれていますが、当時は茶の湯に用いる「茶座敷」
楽々の間も同様に数寄屋建築であり、12代藩主井伊直亮により、地震の間のさらに奥に増築されている。
「楽々園」の名の由来ともなった建物であり、 煎茶の茶室として近年注目。

変化に富む破風・花頭窓・廻縁・堅固な石垣・防弾の効果を高める二重壁・鉄砲狭間などが


「佐和山城」彦根市、
鎌倉時代、佐々木定綱の六男、佐保時綱がこの地に館を構え、15世紀中頃には、六角 氏の支配のもとに小川左近大夫を城主として、犬上坂田両郡の境目の城となったと伝え られている。 戦国時代、佐和山城は度々戦乱の舞台となり、多くの武将の居城となった 。

「荒神山」彦根市の中西部、
琵琶湖を西に 望む、近江盆地の一角、湖東地方の一角に形成された標高284mの独立峰。 山頂のおよそ300m北東に、標高261.48m、日夏山がある。

「三上山(近江富士)」
なだらかな稜線を描くその美しい姿から「近江富士」の名 が。

                           荒神山
  

「丹羽長秀」
1585年、織田信長の二番家老で「織田四天王」の一人。
丹羽 長秀が胃癌の為に亡くなりました。享年51歳。 織田信長に天下を取らせた「織田四天王 」
柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀。

「堀尾吉晴」
1544年頃、「一柳直末」らとともに「豊臣秀次」付の宿老に任命、近江国佐和山に四万石を与えられている。

いろは松は、昔47本あり、現在33本残っている。   丹羽長秀と堀尾吉晴ー人物画
  

慶長五年 1600年、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍に勝利した徳川家康は、関ヶ原 で戦功のあった徳川四天王の1人である井伊直政に三成の旧領である近江湖東の地18 万石を与えた。
古来より湖東の地は、中仙道と北国街道が交わり、京の玄関口 で重要な地域。

                      関ヶ原の戦い


内堀沿いに歩いていくと、もう一つ家老の屋敷が,京橋口付近にある長屋門で、「家老西郷屋敷跡」(3,500石の家老屋敷)

「旧池田屋敷長屋門」
彦根城の中掘に近い第三郭に建っている。
池田屋敷 のあった尾末町一帯には、中級武家屋敷が広がっていたと云う。
当建造物は彦根藩中級 武家屋敷の典型をなす長屋門。(市指定文化財に指定)

時報鐘(日本音風景百選に)今も定時に鐘の音が             武家屋敷門
    

 彦根城と近い石田三成の佐和山城・井伊家菩提寺清凉寺・井伊神社も佐和山方面
    

「笹尾山」「小西行長陣跡」
1558年京都の薬屋の次男、宇喜多直家に才能を見出され、武士として家臣。秀吉のもとに使者として訪れた際、その才気を買われ、秀吉の臣下になる。
キリシタンとしても有名、行長の主な活躍といえば、朝鮮出兵、秀吉から先陣を任され数々の戦果をあげている。
加藤清正等と功績を競うなど武断派に勝るとも劣らない武力を持っていたと云う。
関ケ原の戦いにおいては開戦地近く、激戦を繰り広げられる。小早川の裏切りを皮切りに、大谷吉継、宇喜多秀家と総崩れになり、それに続くように行長も退却した。
石田三成、安国寺恵瓊らと共に京都の六条河原で斬首。

「島津義弘」
関ヶ原の戦い・西軍、東軍の追撃の速度が緩んだことや、家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身はかろうじて敵中突破に成功した。
義弘は摂津住吉に逃れていた妻を救出し、立花宗茂らと合流、共に海路から薩摩に逃れたという。
生きて薩摩に戻ったのは、300人のうちわずか80数名だったという。
その一方で川上忠兄を家康の陣に、伊勢貞成を長束正家の陣に派遣し撤退の挨拶を行わせている。
この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。
島津家の存続は、薩摩に戻った義弘は、敗戦の痛手にもめげず薩摩領全土をあげて徳川からの討伐に対する武備を図る姿勢を取って国境を固める一方で、全身全霊を傾けて家康との和平交渉にあたる。
ここで義弘は、和平交渉の仲介を関ヶ原で重傷を負わせた井伊直政に依頼。

                 戦乱の世を見続けてきた「伊吹山」


「彦根神社」市後三条町 彦根市の市街地に鎮座。
祭神は、素盞鳴命、活津日古根命。(この神社が彦根の地名の源流)
“天照大神の王子、活津日古根命が当地にご降臨になり依りて彦根の地名が産まれる”と石碑に、

                            彦根神社
    

次回は、織田信長「安土城」へ。

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