syuの日記・気まま旅

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拝島・昭島  八高線  多摩川散歩(26)

2016-02-25 | 気まま旅
JR青梅線も「拝島駅」へ。

「西武拝島線」は、1928年開業、多摩湖鉄道→武蔵野鉄道→西武農業鉄道→ 西武鉄道。
現在、終日にわたり新宿線田無・西武新宿方面との直通運転を行ってい、日中は直通列車に加えて車両基地を併設する玉川上水駅を起点とした
小平駅 - 玉川上水駅間や玉川上水駅 - 拝島駅間の区間運転もある。
2007年のダイヤ改正で昼間の小平駅折り返しの列車がすべて西武新宿駅発着に統一され、2012年のダイヤ改正で小平駅折り返しの各駅停車が復活。
基本的には小平駅で新宿線(所沢・本川越方面発着)の列車との相互接続・急行は、新所沢駅・本川越駅発着の各駅停車に、各駅停車は
昼間は、1時間あたり西武新宿駅 - 拝島駅間の急行3本(20分間隔)、拝島線内折り返しの各駅停車3本(20分間隔、3本のうち2本は小平駅 - 玉川上水駅間、1本は小平駅 - 拝島駅間:小平駅で本川越駅発着の急行と相互接続)し、小平駅 - 玉川上水駅間は10分間隔のパターンダイヤと云う。

「JR八高線」は、八高南線(昭和6年、 八王子駅 - 東飯能駅間 (25.6km) が開業。八高北線(昭和6年、 倉賀野駅 - 児玉駅間 (16.1km) が開業。
昭和8年、児玉駅 - 寄居駅間 (12.0km) が延伸開業。松久駅・用土駅・寄居駅が開業した。

「八高線」-昭和9年、小川町 - 寄居間 (11.1km)が延伸開業し全通。八高南線を改称して八高北線を編入し八王子 - 倉賀野間を八高線となる。
竹沢駅・折原駅が開業。昭和20年、小宮駅 - 拝島駅間の多摩川橋梁上で上下の列車が正面衝突する事故が発生「八高線列車正面衝突事故・少なくとも105名が死亡」•昭和22年、東飯能駅 - 高麗川駅間で下り列車が過速度により脱線・転覆(八高線列車脱線転覆事故)、184名が死亡。
昭和33年に全旅客列車が気動車化された。
八王子駅 - 高麗川駅間が電化。高麗川駅を境に南北運転系統分離、川越線川越駅まで(一部が南古谷駅始発)直通運転開始、
平成26年、全通80周年を記念して、「八高線全通80周年記念号」が八王子駅 - 高崎駅間で運転される。全線を走破する旅客列車の運行は18年ぶりと云う。平成27年、拝島駅(八王子行き)ホームにて、昇降式ホーム柵使用開始し、将来の計画では、箱根ケ崎駅 - 金子駅間に、主に中央本線用の車両基地を設置する計画があり、用地買収が進められている。
東福生駅 - 箱根ケ崎駅間の都営瑞穂アパートで建替えを行ったときに、新駅設置のための駅前広場用地に、非電化区間沿線では、本数増加と複線電化、八王子までの直通運転復活を望む声がある。
北藤岡駅は高崎線と近接しているにもかかわらず高崎線の方に駅がなく、相互に乗り換えができないために、高崎線上野方面と行き来する利用客はわざわざ一駅反対方向の倉賀野まで行かなければならない。
このため、同線の方にホームと駅舎を移設する構想があると云う。

               拝島駅ホーム(向かいに西武拝島線が)


                    近代的な拝島駅


八王子~倉賀野間92.0㎞の地方交通線「八高線」
今から40年前の昭和45年頃までは、蒸気機関車による運転が東京で最後まで残っていた路線。
現在、八王子~高麗川間(31.1㎞)は電化線区となっており、その先高崎までは気動車による運転の非電化ローカル線区(65.3㎞)である。
その「八高線」で、終戦直後の2年足らずの間に、国鉄の戦後列車運転事故史上5指に入る大事故が2件発生している。

( 国鉄八高線東飯能~高麗川間列車脱線転覆事故・1947.2 )
その一つは、昭和22年、朝7時50分頃に、東飯能~高麗川間で起きた列車脱線転覆事故である。
終戦直後の食糧難の下、かつぎ屋や買い出しの乗客で超満員の下り第3旅客列車(C57形蒸機+客車6両)が20‰の下り勾配個所で速度超過に至って曲線部で脱線し、高さ5㍍の築堤下に4両の客車(木造)が転落して粉砕大破し、184人死亡・495人が重軽傷を負った事故。
運転手の実乗務6ヵ月という技量の未熟から発生・真冬の朝の大惨事であった。

「国民の大半が敗戦のショックの最中にあった今から65年前の、終戦9日目の昭和20年8月24日午前7時40分頃に起きた」
まだ、国民が戦時の生活環境から抜け出しきれずにいた、終戦7日目の東京は曇天となり、夜に入って関東の西北部を激しい雨を伴った豆台風が襲った。
8日目に入っても、時折の驟雨が続き、各地で出水騒ぎが起きていた。衰えを見せない風雨は、深夜になって風速を増し豪雨となって八高線の小宮駅(現・東京都八王子市)の小さな駅舎を震わせていたと云う。

       JR東日本ー八高線小宮駅 - 拝島駅間にある陸橋は、多摩川に架かる鉄道橋。
    

激しい降雨に灰色に煙る薄暗い多摩川鉄橋上を対向する上・下双方の列車は、前方から進んで来る列車を直前まで互いに認めることができなかったと云う。非常ブレーキの暇がないほどの距離で相互に相手を認めた時には、約360人余りの乗客を乗せ60km/hの速度で進む上り第6旅客列車と約450人余りの
乗客を乗せ50km/hの速度で走行する下り第3旅客列車はともに高い速度のまま単線の
「多摩川鉄橋上で遭遇し」
拝島方392m・小宮方180mの地点で正面衝突。

  八高線が開通した昭和6年、に架橋されており、現在も架橋当時の桁を使用していると云う。
    

あきる野市の「秋川」と小河内ダム・奥多摩からの「多摩川中流」が合流。
昭和36年、には本橋梁の下流36mの河原から、「アキシマクジラの化石」が見つかっている。 鋼鉄道橋・ 上路式プレートガーダー・橋長 - 571.640m

               朝9時頃の「多摩川」
  

「昭島市」都西部・武蔵野台地南西で多摩川が南境を東流。
拝島が昭和29年合併、農業中心であるが、日光東照宮建立の1617年以降、「日光往還の宿場町」として栄えた。
昭和12年以降の日中戦争勃発にと伴って軍需工場に。

昭島駅周辺は、国道16号線・新・奥多摩街道・緑街道・江戸街道・拝島大師通りと住宅団地などで住宅地化が急速に進んでいる地位である。



「拝島日吉神社」
村上天皇の天暦年間の 947-957年、創建
拝島山大日堂が再興された天正年間の1573-1592年、にその守護社として建立されたともいう。
寛保元年の1741年、「山王大権現」の社号が許された。(明治2年には日吉神社と改称)

狛犬                手水舎               鐘楼


拝島公園・ 拝島大師・大日堂・日吉神社、拝島のフジ、拝島公園プール、
戦国武将石川土佐守の娘「おねいの眼病治癒」を祈願して目を洗ったといわれる「旧跡おねいの井戸」などがある。

        一帯を総称して拝島公園・拝島大師と呼ぶ。


拝島藤ー記念物
根元の周囲は3m、高さ2.4m、広さ約300㎡、 のフジ棚に広がっている、樹齢800年以上と言われるフジ。
 大日堂の境内にあり、地元の人たちは「千歳のフジ」とも呼んでいる。

「本覚院」ー天台宗ー
     山号ー拝島山。1578年、慈恵大師の木像を安置したのが始まりと云う。


「良源ー慈恵大師」  912-985       -出身地は、近江国ー
平安時代の天台宗の僧。諡号は慈恵大師。一般には通称の元三大師の名で知られる。
第18代天台座主であり、比叡山延暦寺の中興の祖。

総門南大門  中世以降は民間において「厄除け大師」など独特の信仰を集め今日に至る。


良源は、延暦寺諸堂の復興に邁進し、「二十六箇条起請」の布告して僧風の刷新に努め、天台教学や法要儀式の整備をはじめ、僧侶育成に力を注ぎ、
「広学豎義」を新設して学問を盛んにした。
まさに慈恵大師の時代に比叡山は一大発展をなし、後代の日本仏教の基礎となったと云われる。
平安時代後期は、末法思想が流行し、念仏(阿弥陀信仰)が盛んとなったが、慈恵大師は、「極楽浄土九品往生義」等を著している。
門下三千人といわれる中、弟子に「往生要集」の恵心僧都源信や檀那院覚超などがおり、その後の日本浄土教の展開に影響を与えた。
985年、に遷化されたので「元三大師」と呼ばれ、「慈恵」の諡号を賜わったことにより慈恵大師と称される。
数々の霊験や説話が残されており、降魔大師・魔除大師・角大師・豆大師など霊験ある聖者・元三大師として信仰を集めている。
角大師は厄災を降伏させる恐ろしい様相の護符である。
豆大師は小さな大師の姿が豆粒のように9段33個並べられているお札で、慈恵大師は、「如意輪観音」の化身とも仰がれ、観音様として
三十三の童子に姿をかえて農民の田畑を守ったという故事によるもので、我々を救って下さる威力を示したものであると云う。

天台寺院では、慈恵大師尊像や掛軸を祀るところが多く、現代に続く強い信仰は、まさに大師の広大な慈悲の証であろうと云う。


「本覚院」
日光街道(現国道16号)と奥多摩街道の交差点、「拝島」にある。
ご本尊は、大師自刀自作の元三慈恵大師様で、永く比叡山横川にありましたが、元亀2年の1571年、織田信長の兵火により焼尽に帰すべきところ、
敬大僧都により救出され、諸国行脚の末、天正6年、拝島本覚院に安置された。
爾来400有余年。三多摩・武蔵の西関東随一の「お大師さま」信仰の霊場として、春夏秋冬参詣者の絶えることなく、ことに厄除、病気平癒に絶大な御利益
ありとされ、本覚院の「お大師さま」は、拝島大師の呼び名で親しまれている。
初縁日の正月2日・3日には、参道の両側に、江戸時代19世紀半ばから続く「だまる市」が全国一早く開かれることでも有名。
幕末、横浜が開港し、欧米各国へ絹、生糸の輸出が増大するに伴って、現国道16号が横浜-相模原-八王子-拝島-箱根ケ崎-豊岡-川越さらに上州、野州
と結ぶ、いわゆる日本の絹の道(シルクロード)として登場し、街道周辺農村に養蚕、製糸業ブームが到来する中で、蚕の病気、増産に効き目があるとして
農家の副業による紙製ダルマ作りが始まり、大勢の人出で賑わう大師の初縁日に売りに出された、これが「拝島大師ダルマ市」。
昭和48年、「文殊菩薩」をおまつりする文殊楼、昭和53年、元三大師と母上とのいわれある大梵鐘ちぶさの鐘、昭和58年、大師様御本地如意輪観世音菩薩を
まつる奥の院多宝塔、新本堂元三大師中堂、(御本山国宝根本中堂と旧国宝大講堂とを併せた、総欅造の本格的天台密教建築)
水屋水天宮、平成7年に総門南大門、平成8年文殊楼拝殿、平成9年西大門転害門、平成10年八角円堂へと続き、旧本堂は現在大黒天堂、八角円堂は弁財天堂が。



拝島大師は、七堂伽藍が整備され、新本堂元三大師中堂(平成6年落慶)、講堂(客殿、昭和42年)、文殊楼(昭和48年)、
鐘楼(昭和53年)、多宝塔(昭和58年)、大黒堂(旧本堂、文政二年)、

八角円堂弁天堂(平成12年)、南大門(平成8年)、西大門(平成11年)と続きいた。
経蔵堂ー仏教の経典に対する日本人の信仰は格別なものがあり、経典を架蔵する輪蔵をぐるりと一回転させれば、そこの経典は全部読んだことになる。
経典の功徳は絶大、亡くなった人の追善供養に最も善いとされる。
拝島大師では、経蔵堂建立を計画していると云う。



「戦国時代」
小田原北条氏と上杉謙信との相越同盟がなされ、自国の孤立を懸念した武田信玄が小田原城を攻略するという事態が。
小田原に至るその進軍経路に「北条氏照」(1540-1590)が本拠とする滝山城が包囲・攻撃を受ける際、
信玄がこの拝島大師を含む大月堂を本陣として設営している。
1554年、に結ばれたいわゆる相甲駿同盟は駿河国の今川義元(1519-1560)は、桶狭間にて討ち死にしその結果勢力のバランスが崩れる事になり、
1560年、甲斐の武田信玄は駿河の今川領に侵入しここに三国同盟は破綻する。
信玄の駿河侵入に対し永和12年の1569年、小田原北条氏3代の氏康は、
北からの脅威を排除するため、これまで敵対していた越後国の上杉謙信と同盟して信玄勢の孤立を狙い、1569年、越相同盟に激怒した信玄は
北条氏攻略のため2万の大軍を率いて碓氷峠を越えて小田原に向かう。



「拝島大師奥の院・多宝塔」
         大師様御本地如意輪観世音菩薩をまつる奥の院多宝塔、


「圓福寺」ー天台宗・山号拝島山ー
開創は、不明だが、再建天正元年の1573年。
寺は、大日八坊の一寺として再建。
大日八坊の開基は、滝山城主「北条氏照の家臣石川土佐守」。
北条氏照は早雲から数えて4代目の北条氏政の兄弟で、石川土佐守は氏照の重臣で、拝島・羽村・久保・天間・高築の5ケ村の領主。
石川土佐守の娘おねいが7才の時、不幸にも眼病を煩い両目が見えなくなり、父母はせめて一眼だけでも見えるようにと大日堂に祈願し、
更に大日堂の下から湧き出る水で眼を洗ったところ、何と左目が見えるようになったと云う。
石川土佐守一族はそのお礼に古い大日堂を建て直し、また新しく一山八坊を建立し、これを滝山城の鬼門よけにしたと伝えられている。
大日八坊とは、別当である普明寺のほか
本覚院・圓福寺・知満寺・密乗坊・龍泉寺・蓮住院・明王院で、現在では普明寺・本覚院・圓福寺の3寺しか残っていない。
寺は、新編武蔵風土記稿によると、
「客殿三間に七間南向、本尊は聖観音を安置す。開山詳ならず。大日領一石の配当、廃寺の蓮住院の寺務を摂行し、都合二石をおさむといへり。」とあり
本尊は「聖観音」となっている。

      「阿弥陀如来像・水子地蔵尊」(本堂は昭和49年再建)


                      普明寺本堂前


「普明寺」-天台宗・山号ー拝島山ー
創建年代については不詳。
戦国時代に再建されたという。もとは本覚院(拝島大師)などとともに隣接する大日堂の子院のひとつとして建立。
大日堂の別当寺であった。江戸時代には大日堂領として朱印状が与えられていたと云う。

                本尊ー大日如来


都指定文化財ー(大日堂) 木造大日如来坐像・木造釈迦如来坐像・木造阿弥陀如来坐像・木造金剛力士立像

文禄年間の1592-1595・に谷保天満宮から分霊を奉斉したと伝えられている。
祭神は菅原道真で子供達の信仰が厚く、1月25日の初天神などに天神講が開かれている。
境内にあった大ケヤキは樹令八〇〇年以上と言われ、文部省の天然記念物に指定されていたが、老令化のためか自然に倒壊。
(「昭島市史」より)



次回は、JR日野駅へ。

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