syuの日記・気まま旅

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正覚禅寺 滝つつじ

2015-07-21 | 気まま旅

「禅の6つの修行要素」
「座禅」- 坐禅中は、姿勢を正し(調身)、呼吸を整え(調息)、心を整える(調心)心身のバランスを取り戻していく。
「規則正しい生活」ー生活を送るうちに、計画した生活リズムで、心身を健康な状態へと導く。
「修行と仲間」-心の交流は、疲れた心を癒やし、他の修行仲間との会話の中で、多様な考え、価値観に触れ、視野を広げる。
「自然」- 天気の良い日に大空の下で作務を、土に触れ、自分の悩みが小さく感じられ、自然には人を癒やす力があります。
「作法」- 身体の動きには、その人の心がよく現れ、禅のこころの動き方である作法を実践することで、自分の心が少しずつ仏のこころに近づいて行く
「法話」-人が生きていく上で、もっとも大切な事、法話から説き、「陰徳」、「下座のこころ」など、修行生活に欠かせないこころのあり方を学ぶことで、現代社会の中で忘れがちになっている、人生の宗教的意味と価値に目が開く。

「津久井町相模湖・正覚禅寺」
臨済宗建長寺派の禅寺で創立は嘉慶元年の1387年創建。津久井33所観音霊場
雲居寺の「大雲禅無和尚」 (建長寺第202世)発起と云われ、自坊の寺を第一番にして「臨済宗、真言宗、曹洞宗等」の寺で、

「西国、秩父、四国百観音霊場」お参 り。
津久井地方に観音霊場を開設し、「午」歳本開帳、「子」歳 中開帳があり六年毎の御 開帳。霊場は加盟45ヵ寺と成った為、
「津久井33観音霊場・津久井観音霊場」に。

             本尊ー木造聖観世音菩薩で行基菩薩の作


本尊の木造聖観世音菩薩・ 像高ー67・3㎝・造立年代 南北朝時代(14世紀)、行基菩薩御作
名付観音・寺の檀信徒や縁のある方には正覚寺で昔から産れた赤子に名前を授け来ていると云う。病気平癒の聖観世音菩薩様としても昔から信仰。
第15番「南無大慈大悲観観世音菩薩」は、中番と言われ、昔は、ご開帳の年に33ヶ所全部巡礼する事は、 時間的に困難な為、第1番から十四番迄の霊場巡拝を終えたら、次の第十五番(正覚寺)から三十三番迄は、次の御開 帳の時に巡礼をしたと云う。
正覚寺は「中番」と言われ、次回霊場巡拝の重要な出発寺でもある。

ツツジが滝のように咲く。ツツジは終わってしまったが咲いたときはどんなに美しいことでしょう!


西行の歌碑 正覚寺の裏山一帯を「間の山」と称し、別に「嵐山」。
嵐山とは今より千百余年前、 大和の隆弁僧正この地に遍歴の際、山城の嵐山に似たるとてこの名を附せりとあり、西行法師はこの嵐山に 憧れて、歩をこの「間の山」に進めしものという。
正覚寺本堂に掲げてある(現在不明)額面に、この消息を 伝える文面、西行は、天台宗の僧、一名歌僧とも云われ、号を円位、
鎮守府将 軍藤原秀郷の孫にして左衛門尉康清の子、後鳥羽上皇に仕えて北面の士となり、 吾妻に下向の折、将軍頼朝これを聞き、人を遣わして西行を鎌倉に召すとある。
和歌、弓馬の事とを問わるるに、 西行辞する事を能わず、通宵大いに談ず、頼朝感謝して愛玩の銀猫を贈る。
西行これを受けて門前に出ずるや、 路傍の児童に与えて呉れ去る。
全く人口に膾灸する所にあらず、西行法師常に謂うらくは、「凡そ密教を 学ばんとすれば和歌を学ぶべし、さらではその奥旨を悟り難し」と、師の和歌に対する意見なり。それより 鎌倉を辞し、かって大和の隆弁遍歴のみぎり、山城の嵐山に似たるとて、その名を附すせりという間の山に 歩を進めて・
と有ると云う。



              『吾妻路や間の中山ほどせばみ心の奥の見ゆばこそあらめ』
山家集の恋歌ーの一首を詠じ、佐賀の大覚寺に摸し、字義を同じうする正覚寺に投宿し云々。
最近、当寺へ愛好家の訪れ、西行法師の歌碑も 時代の脚光を浴びるに至っていると云う。(怪石のある石老山と小仏峠の間は、現在相模湖ピクニックランドの用地となっている)

正覚寺大樫の根元の子持石に西行の歌碑を刻む、西行の腰掛けたと言う「西行法師腰掛石」もあり。信玄道 武田信玄と小田原北条氏が三増峠で合戦、信玄戦勝し、正覚寺面前を通り甲州へ帰る。正覚寺古屋敷は信玄帰途の際、 道明かりとして焼失す。相模湖町には「信玄道」は二道あると云う。

    

1775年、再建と成った、鎌倉建長寺の「山門建立」に関わる「狸和尚」の話しは各地方に昔から伝わる。
当寺正覚寺にも「狸和尚伝説」の話しが遺されていて、その伝説に関っ ている山門化縁主萬拙和尚の掛軸や、正覚寺がその檀信徒に山門建立の為の柱木欅を請け負わせ、相模川の 水運を利用して鎌倉へ搬出する事に関係した古文書、更に、「狸和尚の人面石」等が伝説と共に現存してると云う。

350年程前、 鎌倉建長寺の住職、「萬拙和尚は山門を建立するため勧進といってな、寄付金募集の旅をしておった。 和尚が山口の正覚寺へ立ち寄ったのは、峰々の雪も解け始めた春の事じゃった。正覚寺へ宿泊した 和尚は、この地に山門柱木の適材のあることを聞き、早速不足分の七本を調達して、ひとまず建長寺へ 戻る事と成った。ところが疲労からか、和尚は帰るとすぐ病気になってしまってな、それから先の勧進 を続ける事が出来なくなってしまった。この事を知って喜んだのが、建長寺の裏山に五百年もすんでい るという古狸じゃった。
「これはシメタ」とばかりに、さっそく萬拙和尚に化けて勧進に出かけてしま った。
藤沢から伊勢原、厚木へと進み、ついに正覚寺へ着いたが、正覚寺には泊まらず、義海和尚にあ いさつを残しただけで次の投宿場、甲州街道小原宿の本陣へと向かって行ったそうじゃ。本陣へ着くや、 出迎えの者に「わしは犬が大嫌いでのー、つないで置きなされやー」と命じたり、女中からお風呂を進 められても、「いや、風呂はあまり好まんでのー」と断ったりする。
女中が「でも道中汗をおかきに成 ったでしょうから」となおも進めると、「では、いただこうかな」とシブシブ腰を上げたが、入る真似 をするだけである。さらに「夕食を召し上がれ」と、女中がお膳を運んでいくと「お給仕はいらんでの ー、そこへ置いていかっしゃれーという。女中は、手がかからなくていいと思う反面、なんとも言動 が奇妙なので不思議に思ってたが、翌朝もっと驚く事があった。床を上げようとすると、和尚の布団 に獣の毛がたくさんついておったのじゃ。女中が「どうしたものか」と思案していると、ちょうどそこ へ次の投宿先、多摩の法林寺から迎への者がやって来た。そこで女中は、その者にこれまでの奇妙な出 来事をそっと耳打ちして、和尚を送り出した。法林寺でも、和尚の言動は女中から聞かされとおり奇妙 なものだったので、寺中の者が怪しんだ。そこで、なんとか正体を見とどけようと、まずお風呂をすす めた。すると入ったものの、あまりにも静かすぎるので、寺男が湯加減を尋ねると「いいあんばいじゃ」 と答えながら「ボチャボチャ」と音るをたてている。
なんとか中の様子をのぞいてみようと羽目板の穴 から覗いた寺男は、驚きのあまり思わず声をあげそうになってしまった。
なんと体中に毛が生え、浴槽 のふちに腰をおろして尻尾でお湯をたたいていたのである。
夕食の時も、小原の本陣と同じように「つ いていなくてもよいでのー、終れば呼ぶでのー」と、寺の女中を追い立てるように言う。だが、機転を きかした女中が、襖が跳ね返るようにピシャリト強くしめ、その隙間からのぞいて見ると、これは大変、 お膳の上へ飯をあけ、汁をかけてピシャピシャ、クチャクチャ食べている。
いよいよ、これは狸か狐が 萬拙和尚に化けているのに違いないということで、和尚が便所へいくのを待って、犬を追放したからた まらない。
「ギャアッ!」という悲鳴と共に犬にかみ倒され、そこを寺男に山斧でバッサリと首を落と されてしまった。
寺男はその首をすぐさま箱に入れ、建長寺へ行こうとしたが、「首をあらためてもら うなら、何も鎌倉まで行く事はない、正覚寺の和尚に見てもらえば分かるだろう」という者があり、さ っそく山口の正覚寺へ出向く事に成った。
さて、法林寺の寺男が持参したその箱を、 正覚寺の義海和尚が「それはご苦労、さあ、お集まりの者もご覧じろ」と開けて見ると、誰も息がとま るほど驚いたそうじゃ。
なんと、それは一個の人面の石と化していたそうじゃ。
なになに、「それはほ んとーの話しか?」じゃと。ほんとうじゃとも。それが証拠に、今も正覚寺にはその「 狸の化首(現存) が残っているそうじゃ。」

    

八方睨み達磨・七転八起達磨はあるが,「正覚寺の 首廻り達磨」は珍しい。
達磨の掛軸を見つめながら左、真中,右と部屋の中を、達磨の目を睨みつけながら移動すると、 あら不思議、自然に達磨の顔もこちらを睨みつけながら移動・・・何処に立って居ても達磨は その人を睨んでいると云う。
この「首廻り達磨」は、よく首が廻ると云う事で縁起物となって、不況救いの達磨様。借金も首が廻るようになる。参拝。

                                           化首と首廻り達磨や夏涼し   児草
    

「正覚寺境内のつつじ」
約千本植樹され、4月下旬から、 5月初旬に掛けて、これらのつつじが咲き誇るとそれは見事な景観と云う。

「滝つつじ」は、寺の西側、傾斜を生かした滝つつじ。
  

次回は、津久井城址と公園へ。

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