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お江戸見みたけりゃ 高崎田町

2014-12-29 | 気まま旅

1604年慶長9年「酒井忠次」下総白井から高崎に入封。1680年徳川網吉(館林城主から将軍に)。
1738年京都西陣から桐生に高機技法が入る。
1783年浅間山噴火。1871~81年群馬県成立・高崎に県庁開設~前橋に決定する。
1884年上野ー高崎間鉄道開通ー1956年電化、1889年小山ー高崎間に両毛鉄道開通、1910年東武鉄道浅草ー伊勢崎全面開通、
1931年上越線全線開通。1955年昭和30年三國トンネルが開通した。
1972年東北・1980年関越自動車道開通。1982年昭和50年上越新幹線開通。

1590年「箕輪城」に入城した「井伊直政」が中山道整備して、戦国時代の「和田城」跡組み込みー「高崎城」築城。城門など主要建物は、
箕輪城から移籍している。
安東氏藩主時代は、「お江戸見たけりゃ高崎田町」の賑わいを見せている。

高崎公園は市庁舎の南側で旧高崎城隣接地を造成し、広くはないが平坦で多くの樹木に覆われていて憩いの場所として


「井伊直政」 1561-1602 井伊の赤備え・徳川四天王の一人。箕輪城主。井伊直親の子、武田旧臣を付されて軍団(井伊の赤備え)を組織した。
小牧・長久手の戦いで先鋒、池田恒興撃破で、上野国12万石・関ケ原の戦い軍功近江国佐和山18万石。

「酒井忠次」 1527-96  徳川家の宿老、徳川四天王の一人。家康駿河行に随行、吉田城東三河の旗頭と成り国を平定尽力、内政・外交に活躍
姉川・三方ヶ原のたたかいで軍功。家康嫡子「信康」が、武田旗内通の疑いを織田信長にかけられと時、弁明の使者に立っている。
信康の暴虐を吐露している、その為家康は信康処刑。

高崎城は、慶長3年(1598)、徳川家康の命を受けた箕輪城址・井伊直政によって築城


「高崎城跡」は、駅西約500m、室町時代に「和田義信」が築いた「和田城」が前身で、1598年井伊直政が烏川東岸河岸段丘上に築城している。
天守閣は明治維新まで残存したと云う。
1872年・明治5年陸軍の管轄となる。終戦まで軍用地であった。

城は、郭内だけでも5万坪を超える広大な城郭。三の丸 外囲の土居と堀、乾櫓、東門が残っている。
    

室町時代、関東管領の支配するところとなると、和田氏は管領の上杉氏に帰属した。
1561年、城主和田業繁は帰属していた上杉謙信に反旗を翻し、武田信玄についた。
和田城は、上杉勢の度々の侵攻によく耐え、その子、「和田信業」は、北条氏に属した。
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐の際には小田原城に籠城した。
和田城の留守を預かる信繁の子・「和田兼業」は、前田利家・上杉景勝等の連合軍に大軍をもって包囲され、4月に落城、廃城となった。

東門・乾櫓は、復原
    

家康の関東入部とともに箕輪城主となっていた「井伊直政」は、1597年、家康の命により、和田故城の城地に近世城郭を築いた。
この地は中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝であり、その監視を行う城が必要とされた為と云う。
1598年、直政は箕輪城から築城中の高崎城に移っている。
直政は、入城に際し、当地を「高崎」(箕輪城下に直政が創建した恵徳寺の開山龍山詠譚和尚の「松は枯れることがあるが、高さには限りがない」との進言により)と名付けたとされている。箕輪より町家や社寺を移して城下町を築いた。

春には約300本の ソメイヨシノやツツジが満開となる。城を囲む土塁の上は遊歩道になっている。
    

1600年、の関ヶ原の戦いの後、直政は近江国佐和山城に移封。
その後、諏訪氏、酒井氏、戸田氏、松平(藤井)氏、安藤氏、松平(長沢・大河内)氏、間部氏、松平(長沢・大河内)氏と譜代大名が目まぐるしく入れ替わり、明治維新を迎える。
最後の藩主は松平輝声である。
1619年に入城した安藤重信は城の改修に着手し、以後、3代77年間をかけて大改修され近代城郭が整備されたと云う。
1633年には、実兄である3代将軍徳川家光の命により、この城に幽閉されていた徳川忠長が当城で自裁した。

高崎城乾( いぬいやぐら)は移築整備され群馬県指定の重要文化財に、高崎城東門は高崎市指定 .
  

「大河内 輝声」1848 - 明治15年・ 1882年は、幕末の上野国高崎藩の最後の藩主。高崎藩 大河内松平家11代。はじめ松平姓を称した。

「徳川忠長」  1631年、不行跡(家臣1名もしくは数人を手討ちにしたとされる)を理由として甲府への蟄居を命じられる。
その際、秀忠側近の崇伝らを介して赦免を乞うが許されず、1632年の秀忠の危篤に際して江戸入りを乞うたがこれも許されなかった。
秀忠死後、甲府に台徳院殿(秀忠)供養の寺院建立や、加藤忠広改易の際に風説を流布したとして改易となり、領国全てを没収され、10月に安藤重長に預けられる形で上野国高崎へ逼塞の処分が下される。(その際に朝倉宣正、鳥居成次も連座して改易処分)
新暦1634年、幕命により高崎の大信寺において自刃。享年28。1675年、大信寺に建立され、現在では高崎市指定史跡。「硯箱、自刃に用いた短刀、自筆の手紙などが位牌とともに保存されている」と云う。

江戸幕末の時代に思いをはせながら散策、 高崎城本丸にあった三階建ての御三階櫓(天守)4基の隅櫓、樹林歩道が。
    

「高崎観音山」
白衣大観音・慈眼院     標高190m、高崎西部の丘陵に建立された高さ41.8mの白衣大観音像


観音山は、桜の名所3千本が咲きほこる。参道が長くヒツバタキという「蒟蒻」のおでんで知られている。

「井上保三郎」氏建立
高崎を代表するシンボルの一つ白衣観音を、昭和11年に巨額な私費を投じて建立した のが「井上保三郎」氏。
保三郎は1868年に町民の子として「あら町」に生まれ、生涯を 高崎で送った。
市制が施行され、初代市長に矢島八郎が就任し、保三郎も初代市議会議員に選ばれ、1917年まで前後一6年間、市議を務め, 1906年には、矢島市長が総合計画に当たる市是を発表、今日的に見ても模範的な施政方針に、保三郎は、 1910年の剣崎浄水場、南尋常小学校、高崎公園の完成、1917年の高崎公会堂の建設。昭和に入って駅前凱旋道路のアスファルト舗装や橋梁の永久橋化をもって市是に応え、
保三郎の事業の成功は、金もうけ主義などではなく、進んで市是を具現化したと云う。

高さ41.8m(9階相当)・重さ6000t、胎内は、仏様が安置され肩まで登れる。
    

「慈眼院」
高野山金剛峯寺の塔頭寺院のひとつで、学侶方の寺院として隆盛を誇る。
明治の廃仏毀釈で高野山でも寺院の統合廃寺がすすむなか、衰退しつつも慈眼院は昭和初期まで存在しており、高崎白衣大観音建立後、昭和16(1941)年に高野山より別格本山として高崎への移転が決まりる。

創建は、鎌倉中期、執権北条義時の三男、相州極楽寺入道重時と伝えられ、寺記によると、元禄時火災により炎上、過去帳や古文書の類はことごとく焼失したといわれている。
続紀伊風土記には、本尊の聖観世音菩薩は鎌倉坂下村の安左衛門という文人が由比ヶ浜で漁をしたときに網にかかった尊像とある。

33体の石仏観音安置
    

「清水寺」

518段の石段、808年坂上田麻呂が、京都の清水観音の名はこの観音様から起きたと云う。堂まで300mの登り

清水寺
    

清水寺は、高崎観音山の東腹にある曹洞宗の寺院。
古くから養蚕の仏様として近郷の信仰を集め、 808年、坂上田村麿が東国平定の際に戦死した将兵の冥福を祈り、京都の清水寺から勧請して建てたと伝えられ、本尊ー千手観音。近隣丘陵地の名称「観音山」の基となる。
正面右に田村麿の像を安置する田村堂が、田村堂内には、1864年、下仁田において水戸天狗党と戦って戦死した高崎藩士36人の木像を安置。

石段の参道両側には、多くのアジサイが植えられており開花期には参詣者で賑う。
観音堂(本堂)前には楼門風の舞台があり、高崎市街が見晴らせる。

清水寺


「坂上田村麻呂」 758-811  奥州平定した征夷大将軍、父苅田麻呂、朝廷武官。蝦夷平定で武功をあげた。蝦夷に農耕養蚕を進めている。
京都の「清水寺」創建。
身の丈約1.75m・胸の厚さ一尺二寸黄金色の顎鬚、勇力抜群両眼鷹の眼、睨めば猛獣も倒れ伏し、にっこり笑えば赤ん坊もなついたと云う。
東北地方に神社・寺院が多い。

清水寺
  

「洞窟観音・山徳記念館」
観音山中腹を堀抜き400mの随道と大ドームを浅間山の溶岩で建設し、その中に観音霊場を実現した。
「高橋楽山」の枯山水を配し西国三番・坂東33変化観音を安置されている。
神秘的な法悦の世界。入場料有料

洞窟観音
    

多額の私財を投じ、洞窟観音を作ったのは事業家・「山田徳蔵」氏。(新潟県柏崎出身)
大正8年に着工し、88才で生涯をとじるまで50年間工事を続けた。
自然鍾乳洞があったわけではなく、なにもない山肌をツルハシ・スコップといった人力のみで掘ったんだとか。
強固な地盤でツルハシは壊れてすぐだめになり、毎朝、ツルハシを研いでから作業にはいったと云う。

洞窟観音
  

洞窟の隣には徳明園と呼ばれる庭園がある。 庭園の中にある建物には漫画家北沢楽天、渡辺崋山、円空らの作品が展示。
  

洞窟観音
      

「染料植物園」
染料植物を約8.5haの広さの中に植えて、染料植物公園。
園内には、160種類、1万7千本の染料植物が植えられている。
また園内の入り口に比較的近いところに、温室がある。温室の中ににはさまざまな熱帯植物を見ることができる。
工芸館では草木染めの実演、入館料100円。

日本初の染料植物園
  
  
温室では、亜熱帯地方に自生する染料植物が


工芸館では、藍染・草木染の体験も
    

「染色方法」
植物の葉、茎、根、実などを煮だした液に繊維を浸し、20分程度加熱し、染まった色素を金属イオンと結合させて発色させ、金属イオンとの結合を媒染といい、アルミニウム、銅、鉄分などを溶かした液に繊維を20分程度浸す。
植物抽出液と媒染を繰り返すことで色素の繊維染着を良くし、染色濃度を上げる。

染料植物園
    

草木染めは合成染色に比べて、品質が一定しない。
天然染料は色素の含有量が一定せず、また単一の色素のみを持つことも少ないので、同じ色を出すのはほぼ不可能と言われる。
濃く染めにくい。
天然染料は色素を持っていても、合成染料のように多量に含んでいるわけではないので、濃い色に染めるのは手間が非常にかかる。
染色の時期が決まってくる。
染料自体の採取時期による色の違いや、季節による染色の向き不向きがあるので、染色を行う季節は自然と固定されるものが多い。
被染色物(染められたもの)の色が光や汗、果汁などに対して弱いものもある。
工業的に量産という点では欠点があると捉えられるが、身近な材料で家庭でも手軽に染められることや、趣味や手工芸の分野では同じものができないことを魅力だと捉える人もおり、草木染めならではの面白さだ.

染料植物園
  
魅力だと捉える人もおり、草木染めならではの面白さだとされる。

「主な天然染料」
アカネ・ベニバナ・ムラサキ・アイ・(タデアイ)・カリヤス・キハダ・ウコン・ゴバイシ・クサギ・イラクサ・ヨモギ・カキシブ・天然染料ー動物性の染料として、貝紫、セピア、コチニール、ラックダイなどがある。

染料植物園
    

次回は、達磨の少林寺方面へ。

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