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幻の古河城 古河の旅ー5

2016-07-30 | 気まま旅

茨城県は日本列島のやや中央部、関東地方の北東部の県。
常陸国ー下総国北西・東は太平洋鹿島灘・北は福島・西は栃木ー常陸台地・南は利根川、千葉県・南瀬に埼玉県に接する。
南が低く・北は高く地形で利根川・鬼怒川・小貝川などで沖積低地の霞ケ浦・北浦など沿岸低地の水郷。
「古河市」は、県最西端の埼玉・栃木に接する。

「幻の古河城」
およそ百年前、関東平野幾千万の生活を守る為に着工した渡良瀬川改修工事。
その着工時と竣工時の実測平面図が十数点現存、その中には掘削寸前の古河城や関東大震災で倒壊するレンガ場西窯の姿が。
前回の「永井寺ー(永井氏の菩提寺)」は、渡良瀬川に沿っている。

城郭構造ー平城(平山城)・天守ー御三階櫓(独立式層塔型3層4階 1633年築 非現存)・築城主ー下河辺行平・築城年ー平安時代末(1180年頃)
主な改修者は小笠原秀政、松平康長、土井利勝、主な城主ー足利成氏(古河公方)、土井利勝 ・廃城年ー明治6年。遺構ー一部堀、土塁
(指定文化財・乾門(市指定・建造物)

平安時代末の「源 頼朝」に従った武将「下河辺行平」が古河の立崎(竜崎)に城館を築いた。
正確な時期は分らないが、行平が活躍し始めた1180年頃、立崎は、「渡良瀬川」とその東側に広がる沼地にはさまれた半島状の台地。
行平を荘司とする下河辺庄は、茨城県古河市、千葉県野田市、埼玉県幸手市・吉川市・三郷市など、渡良瀬川とその下流の「太日川(今の江戸川)」
に沿って広がっており、河川交通により結ばれていたと云う。
この頃、「以仁王」の挙兵にて敗死した「源 頼政」の首を従者(下河辺行義?)が持ち帰り、立崎に葬ったと言い伝わる。
近世古河城では頼政曲輪の「頼政神社」になると云う。行平以後、北条氏が鎌倉幕府の実権を握ると、北条氏の支配下に移る。

    

古河公方は代々およそ130年間引き継がれ、古河は室町後期および戦国時代の関東の中心の一つ。
1558年 - 1570年には、上杉謙信と北条氏康が公方擁立争いのために本城を奪い合い、謙信を支援する関白「近衛前久」が滞在した。
その後、後北条氏の関東支配が確定的になると、古河公方も次第にその支配体制の一部に組み込まれ、城も後北条氏の管理下におかれた。
1567年、から1573-1592年、にかけては、佐竹氏や結城氏らに対抗するため、北条氏照のもとで城の整備・拡充が進められ、1590年、の小田原合戦では、後北条氏の持城として栗橋城・関宿城がみえるが、古河城はみえないことから、最後の古河公方・足利義氏が死去したのちの氏姫期にも、完全には支城化されず、古河足利氏の本拠として別扱いされていたことが分かると云う。(史料にみられるようになる。以前は「古河御陣」が多く用いられている。)
    日本橋ー千住ー草加ー粕壁ー栗橋ー「古河ー小山ー」-宇都宮ー日光(終点)ー奥州街道へ
    

江戸時代は、「日光社参将軍宿城」に。
城主は幕府の要職を務めることが多く、大老の土井利勝・堀田正俊、老中の永井尚政・松平信之・本多忠良・土井利厚・土井利位などが。

「土井利勝」 1573-1644 徳川家康の御落胤ー古河藩主・水野信元(家康の伯父)を父とし、土井利昌の養子。
秀忠(6歳年下)の側近「古河16万石」-大老任命、後、家光になり実権は側近達に移る。

「土井利位」 1789-1848 幕閣の重鎮で大老利勝から11代目の古河藩主ー大塩平八郎の乱鎮圧し、水野忠邦と共に「天保の改革」推進
政策の違いで水野忠邦を失脚させ老中首座へ。

「鷹見泉石」ー蘭学者ーから、土井利位は、雪結晶の研究を行い、「雪華図説」-これは、世界的水準の研究と評価されている。
利位は、病気後幕閣から退き、科学の研究に没頭する。



「古河城」の大部分は、渡良瀬川の改修工事によって水没。古河城出城に当たる、「諏訪廓跡」に建てられたのが「古河歴史博物館」。
博物館には、古河藩家老鷹見家の資料を中心に、古河公方の興亡から、近代古河の発展の歴史等が展示されている。

    

「古河市名木古木」
ー楓・100年・樹高19m・幹回り2.10m   谷具香取神社の榎ー幹回り5m
小蓋宮の大欅ー幹回り9m          雀神社の欅幹回り8.8m      東光寺の椎の幹回り6m
雷電神社の椎樹高15.7m・幹回り3.45m・樹齢190年と欅樹高20m・幹回り4.3m・樹齢180年等がある。

          「浄善寺」-銀杏・樹齢330年・樹高22m・幹回り3.60m


江戸時代初期、土井利勝は、江戸家臣の子供達に「桃の種」を拾い集めさせ、古河に送って領民に育てさせたとある。
古河領地には、燃料となる薪が乏しかったので、成長が早く、果実が食料となる桃が選ばれたと云う。
次回の古河公園開園を記念し、桃の木が植えられたという。

(花桃ー矢口・源平・菊桃・寿星桃の4種)

       日光街道沿道の杉並木は、松平正綱が20年間植樹を続けたという。
    

「鷹見泉石」記念館
古河藩藩士の武家屋敷で、泉石晩年住んだ住居跡

                 古河城の余材で建てられたと伝わる。
    

古河コミニティセンターと文学館               出城跡
    

           古河七福神ー福禄寿
    

次回もー古河市(古河公方公園)

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