syuの日記・気まま旅

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三ノ輪・根岸・日暮里 syu散歩

2017-01-26 | syu散歩

「三ノ輪橋」
都電荒川線の終点駅。
三ノ輪橋という停留所名は、その昔この場所にあった橋の名前に由来。
橋は、石神井川の支流として王子から分流した「音無川」に架けられていいた(現在の日光街道と交差)。
長さは、五間四尺の約10m・幅三間の約6mであったと云う。
明治41年に農業用水としての役目を終えた音無川は、現在は暗渠(地下に作った水の通り道)となって、橋も消えてしまった。



「宗対馬守下屋敷跡」
12世紀頃に対馬国の在庁官人として台頭し始め、現地最大の勢力阿比留氏を滅ぼし、対馬国全土を手中に収める。
惟宗氏の在庁官人が武士化するさいに苗字として本家である惟宗氏から「宗」の一字を賜わり宗を名乗りだしたことが古文書からうかがえる。元寇の際には、元及び高麗の侵攻から日本の国境を防衛する任に当たり、当主宗助国が討ち死にするが、その後も対馬国内に影響力を保った。
南北朝時代、宗盛国が少弐氏の守護代として室町幕府から対馬国の支配を承認される。
やがて少弐氏が守護を解任されると、鎮西探題成立とともに今川氏が対馬守護となるが、今川氏の解任後、宗澄茂が守護代から守護に昇格した。
対馬は山地が多く耕地が少ないため、宗氏は朝鮮との貿易による利益に依存していた。室町時代初期は、西国の大名、商人、それに対馬の諸勢力が独自に貿易を行っていた。しかし、宗氏本宗家が朝鮮の倭寇対策などを利用して、次第に独占的地位を固めていった。
戦国時代は幾度も九州本土進出を図ったが、毛利氏・島津氏・大友氏・龍造寺氏に阻まれて進出は難航した。九州征伐では豊臣秀吉に臣従して本領を安堵された。文禄・慶長の役では、宗義智が小西行長の軍に従って釜山城・漢城・平壌城を攻略するなど、日本軍の先頭に立って朝鮮及び明を相手に戦い活躍した。また戦闘だけでなく行長と共に日本側の外交を担当する役割も担い折衝に当たっている。

関ヶ原の戦いで西軍に属したが、宗氏が持つ朝鮮との取引を重視され、本領を安堵された。後年、朝鮮との国交回復に尽力した功績が認められ、国主格・十万石格の家格を得、朝鮮と独占的に交易することも認められた。江戸時代は対馬府中藩の藩主となり、参勤交代で3年に一度江戸に出仕することとされ、江戸に屋敷を構え[1]対馬府中(厳原)との間を大名行列を仕立てて行き来した。
以後改易もなく明治維新まで断絶することなく続き、維新後華族となり、明治17年には伯爵に叙せられた。本来の叙爵基準では、現米(藩本来の米の収入)5万石以下であった対馬藩は子爵相当となっていたが、対朝鮮外交者としての家格が考慮され伯爵となる。









「伊勢亀山藩主石川日向守屋敷跡」
伊勢亀山藩は、非常に出入りの激しい藩、関ヶ原後、関一政が3万石で入り成立。伯耆黒坂へ。関一政ははじめ蒲生氏郷の臣で、氏郷が伊勢松坂を領していたとき、伊勢亀山におり、旧領復帰であった。
三河作手より、松平(奥平)忠明が入るが、最初で最後の摂津大坂藩主(10万石)としてへ転出。
その後しばらく天領となる。
三河挙母より、三宅康信が1万石で入って、康盛に継いで、三河挙母へ戻る。
三河西尾より、本多俊次が5万石で入って、近江膳所へ。
近江膳所より、石川憲之が5万石で入って、山城淀へ。
下総関宿より、板倉重常が5万石で入って、重冬、重治と継いで、志摩鳥羽へ。
志摩鳥羽より、松平(大給)乗邑が6万石で入って、山城淀へ。
志摩鳥羽より、板倉重治が戻ってきて、勝澄に継いで、備中松山へ。
備中松山より、石川総慶が6万石で入り、石川家のが維新まで支配。
家康の筆頭家老の地位にありながら、秀吉の元に翻しった石川数正の家、石川数正は秀吉に信濃松本を与えられ、長男の康長に継いで徳川時代もそのまま領有が許されていたが、大久保長安事件に連座して改易。
数正の叔父の家成が石川家の祖となるが、子の康通は大垣で5万石を領するまでになる。数正-康長の石川家は外様だが、家成に始まる石川家は徳川取り立てという扱いで、譜代。石川康通は家成に先立ち、家成が再勤し、外孫の大久保忠隣の子忠総を養子にするが、これが大久保長安-忠隣の失脚に引っかかり、罪を得る。 大坂の陣の功などもあって、豊後日田、下総佐倉、近江膳所と経て、7万石までになる。
石川憲之がこの伊勢亀山に一旦入るが、山城淀、備中松山を経て、総慶の時に、また伊勢亀山に戻ってくる。
石川忠総の二男、総長は兄の憲之が伊勢亀山に入ったときに伊勢神戸を分け与えられ、下館藩の石川家に繋がる。







「日光街道21宿」
日本橋ー千住(三ノ輪)-草加ー越谷ー粕壁ー杉戸ー幸手ー栗橋ー中田ー古河ー野木ー間々田ー小山ー新田ー小金井ー石橋ー雀宮
宇都宮ー徳次郎ー大沢ー今市ー鉢石ー日光東照宮。



「都道462号線」
蔵前三ノ輪線・都台東区にある特例都道であり、江戸通り(国道6号)と蔵前橋通りが交わる蔵前一丁目交差点から分岐して、昭和通り・日光街道(国道4号)と明治通りが交わる三ノ輪交差点までを結ぶ。浅草国際通りは、都道462号線の一部である。




台東区根岸、昔は、上・中・下根岸に。

中根岸の柳通り


JR鶯谷駅に近い上根岸


上根岸~荒川区の日暮里方面へ。





















徳川家宜(紀伊徳川家の祖



                    善性寺本堂



                 日暮里芋坂下「王子街道」



                  日暮里駅前に太田道灌像が



                     JR日暮里駅



























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