syuの日記・気まま旅

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三ノ輪、小塚原回向院・延命寺

2013-12-02 | syu散歩

「荒川区」は、隅田川右岸、都北東部に位置し、南千住・三河島・日暮里・尾久が、区内となる。
荒川の名は、隅田川(荒川下流部)で、江戸時代は、奥州街道千住宿南組と荒川水運による物資の集散地であった。
明治時代は、羊毛・段ボール板紙など工場地帯として発展した。
戦後は、金属・機械工場を中心にした中小零細企業が集中した工業地帯となり、今は、住宅地として整備されている。

「円通院」は、曹洞宗の寺、山号ー補陀山 791年開基と伝わる古い寺。
文化財に、中世の板碑4基・石造七重塔などがある。1868年「仏暦和尚」が、上野寛永寺で敗れた彰義隊の遺骸を埋葬している。
明治に入り、上野寛永寺の黒門を移築したという。

円通院                           上野戦争寛永寺黒門
    

「素盞雄神社」

延暦14年 795年役小角の弟子・「黒珍」が、牛頭天王・飛鳥権現の二柱の神が降臨した奇岩を祀って創建したと伝えられる。
創建以来、二柱を別々の社殿に奉斎していたが、1718年焼失し、同12年に瑞光殿を建築して合祀。
古くから疫病除けで知られ、1858年江戸にコレラが流行した際は疫除守を求めて参詣者が群れ集まったと云う。
明治初期の廃仏毀釈により祭神名を素盞雄大神・飛鳥大神へ改め、社名も素盞雄神社に。

日光街道・千住大橋の素戔雄神社                 芭蕉の奥の細道はここの神社から
    

祭神が降臨した瑞光石は、1864年浅間神社を祀り、富士塚に、 松尾芭蕉の「奥の細道」旅立ちの記念碑がある。

祭事・年中行事は、 天王祭 6月2日に宵宮祭、3日に例大祭が行われる。
京都の祇園祭と同様、夏に流行する疫病を祓う都市型の例祭。 本祭1541年以来三年に一度行われ、例祭の次の土日に社神輿渡御が行われる。
神輿は重量千貫、、(四間半(8.1m)の長柄二本(二天棒)を有する)見ごたえあり。

千貫神輿が町に出る「天王祭」
    

「回向院」は、1651年に創設。
死体は丁寧に埋葬せず申し訳程度に土を被せるのみで、夏になると周囲に臭気が充満し、野犬やイタチの類が食い散らかして地獄のような有様だったという。
この刑場での刑死者を弔うため、1667年に、本所回向院の住職である弟「誉義観」が隣接する場所に常行堂を創建した。
これが後に南千住回向院となり、現在も橋本左内などの刑死者の墓がある。

回向院はその後に常磐線建設の際に線路が敷地中央を通過したために分断され、その際に線路の南側は延命寺として独立し現在は刑場跡は延命寺内に位置する。
1822年、南部藩の臣・相馬大作(下斗米秀之進)がここで処刑されて以後、国事犯の刑死者の死体をここに埋めることになり、
橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎等安政の大獄で処刑された志士たちもここに埋葬された。

「杉田玄白」1733-1817 オランダ医学書を翻訳した祖、蘭方医。若狭国小浜藩外科医の家に生まれ、オランダ医学を学ぶ、前野良沢らと共に
翻訳に取り組む、「解体新書」刊行する。10代将軍徳川家治と京都の公家に献上し問題が出なかったという。

「日光街道・下谷通り」は、素盞雄神社から日光街道に出て千住大橋がある。最初は1594年架橋、隅田川最初の橋で、200mほど上流にあった。その後何度も架橋、改修を重ね、現在の位置になったと云う。
現在の橋は、関東大震災後、復興事業として1927年架橋を渡ると足立区になる。

入谷・三ノ輪・下谷「下谷通り」   小塚原 回向院/吉田松陰・橋本左内志士・鼠小僧・片岡直次郎・高橋お伝の墓がある。
    

木版刷りの本「解体新書」は江戸時代中期1774年(安永3年)に刊行された。
現実を直視しない当時の医学に疑問を抱いていた「杉田玄白」らは、医学の基本である はずのヒトのからだを実際に自分たちの目で確かめたい、そう熱望していた。
しかし、当時ヒトを解剖するのは幕府から禁止されており、唯一死刑になった罪人の「検屍(腑分け)」だけがそれに近いものでした。
幕府に懇願し、刑場で初めてヒトのからだの中身をみた玄白らは、書いてある言葉はわからないが手元にあったオランダ医学書にある図版と、それがそっくりであることに大変なショックを受けたと云う。

この体験をもとに玄白らは詳しい図版入りの「解体新書」を刊行することで、多くの人々に人体内の確かな姿をまさに「一目瞭然」で伝えることに挑戦した。
またこのような図版をみながら翻訳していく過程で生まれたのが「神経」や「盲腸」「軟 骨」といった今では誰もが知っている言葉。
玄白らは新しい概念を図版を通して生み出し、人々に伝えていった。

前野良沢は九州中津藩医師。杉田玄白と中川淳庵は越前若狭藩医師(二人は先輩/ 後輩)。
解体新書の挿絵を書いた小野田直武は秋田角館藩武士。良沢に弟子入りする 。秋田の旅、角舘で直武を取り上げます。
    

1741年に、高さ3mほどの首切地蔵が建てられた。

1771年 明和8年に、ターヘル・アナトミアを手に入れた蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢・桂川甫周らが解剖図の正確性を確かめるために小塚原刑場において刑死者の解剖(腑分け/ふわけ)に立ち合った。

昭和になってからこのことを記念して回向院に寄贈された観臓記念碑が建てられた。
明治初期に西欧と対等の人権基準を設ける必要に迫られた新政府によって廃止されたが、創設から廃止までの間に合計で20万人以上の罪人がここで刑を執行されたという。

延命寺                小塚原刑場跡   吉田松陰などが
    

             3.11の大地震で首が落ちていたが今回修復していた。
 

これで都内の神社巡りは終了します。 

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