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武田・村上の上田原合戦

2011-12-07 | 気まま旅
「上田原合戦」

1548年3月、武田晴信は5000人の兵力を率い北信濃に向けて進軍を開始した。武田軍は上原城で板垣信方の率いる諏訪衆や郡内衆と合流し、
大門峠を越えて小県郡南部に侵攻。
一方、村上義清は天白山の居城葛尾城と北東部の戸石城を拠点に陣を敷く。さらに岩鼻まで南下して上田平に展開し、産川(千曲川支流)
を挟んで武田方と対陣。3月23日に両軍は合戦となった。

信頼性の高い同時代の史料の『妙法寺記』によると、この合戦で武田軍は小山田信有の郡内衆が奮戦したものの板垣信方、甘利虎泰、
才間河内守、初鹿伝右衛門が討ち死にし敗北した。

合戦の具体的な経過について書き記した同時代の史料はないが、江戸時代に書かれた軍記物「甲陽軍鑑」などによると、武田軍は8000余、
村上軍は5000余(または7000余)で、武田軍は板垣信方を先陣に攻撃をしかけた。
先陣の板垣勢は村上勢を撃破して突進するが、勝ちに奢った信方は敵前で首実検を始めた。この油断をついて村上勢は反撃に出る。
不意を突かれた板垣勢は混乱状態に陥り、信方は馬に乗ろうとしたところを敵兵に槍で突かれて討ち取られた。
村上勢は勢いに乗って猛攻をしかけ、先陣が敗れたことで後続の武田軍は突き崩される。
村上義清が武田晴信の本陣に攻めかかり、工藤祐長(内藤昌豊)と馬場信房(信春)がこれを打ち払うが、晴信は二か所に傷を負った。
戦死者は武田軍は700人(または1200人)、村上軍は300人(または1700人)とされる。

  

村上義清~1573年 葛尾城主 佐久郡まで伸ばす、武田信玄信濃国侵攻し対立、上杉謙信を頼る。
上田原で信玄に深手を負わせ武田方重臣「板垣信方」を打ち取る。
二年後再び信玄は、義清の戸石城を囲むが村上軍の追撃を食らう、世にいう「戸石崩れ」である。


   


「雨宮刑部正利の墓」は、上田原の戦いで討ち死にした村上方の武将で、雨宮渡にほど近い唐崎城の城主だった。
雨宮摂津守の子、または清野信秀の子ともいわれている。村上義清が信濃から逃れた後は、雨宮氏は武田に降り信玄の家臣となった。
村上義清の身代わりになったという屋代源吾や小島権兵衛といった武将たちの墓も近隣の田畑の一画にたたずんでいると云う。

  

別所温泉「安楽寺」は、曹洞宗、山号 崇福山。開山は樵谷惟仙。本尊、釈迦如来。国宝の八角三重塔があることで知られる。

     

杉木立の参道は素晴らしい、鎌倉時代の八角三重塔は、本堂の小高い奥にある。(有料)温泉街の西で「七草の湯」から参道に入れる。

  

次回は、温泉街方面へ 

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (matsubara)
2011-12-09 08:15:10
20年ほど前に行きましたが
八角塔だけ覚えています。
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matsubaraさま (syu)
2011-12-11 23:10:34
こんばんは。
遅くなりました、信州は歴史あり見るところ多いです。
何度行っても楽しいです。何回目になるか取り上げるのも多いです。
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