syuの日記・気まま旅

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金沢 近江町市場と寺町

2012-09-05 | 気まま旅

金沢市街地は、犀川、浅野川の挟まれた舌状台地にある「金沢城」を中心に広がっている。繊維、鉄工産業が急落し、第三産業として先端技術
産業が定着し
復興センターなどと地場産業ゾーンが形成されてきている。「金沢駅」前開発も整備され、市民の憩いの場として注目が、「近江町市場館」である、
市民の台所として人気がある。

魚屋さんでは、底引き網漁が解禁になり、甘エビをはじめ近海物の魚が店頭に、主婦でを賑わしている。
金沢名物、めった汁・カニ汁・粕汁の3種類が、美味しそうに湯気を。

市場の入口は、全部で7ヵ所の入口がある。その点を線でつなぐと「女」という字になるといわれている。
現在180店あり、鮮魚・青果・菓子・昆布・蒲鉾製造販売・豆腐製造販売・花など食材、生活用品などピンからキリまで何でもそろう。
スーパーでは味わえないお買物の楽しさを味わえ飽きない。

金沢駅前中央通り、西門の先がむさし交差点、めいてつエムサと近江町市場
       

近江町市場の正面が、武蔵西、西門口、金沢駅前中央口で、左の武蔵南が上場町、香林坊、金沢の中心繁華街片町となる。
市場館中心に路線バスも走り朝から学生、サラリーマンで賑わっていた。

若者で賑わう
    


「福念寺」は、 真宗大谷派の寺、親鸞聖人を宗祖とする。開基は今から450年前と伝えられている。
その後度々寺地がかわり約100年前に 当地金沢市芳斉に移ったといわれている。当地は前田利家の家臣であった「 青木芳斉」の屋敷跡とも伝えられている。

駅近くの福念寺
    


「石川郡吉藤・金沢市専光寺」開基  志念 、創建 1320年、本願寺3世の覚如の弟子・志念が石川郡大糠大額に創建したと伝えられ、1437年に
本願寺存如から下付された「三帖和讃」に「加州吉藤専光寺」とあることから、遅くともこの時点で石川郡大野庄吉藤に移転していたことがわかる。
存如からは他にも聖教類を下付されており、1471年には蓮如から「親鸞絵伝」を下されていることから、蓮如以前の加賀において、屈指の末寺として扱われている。
1482年の「臨川寺領加賀国大野庄年貢算用状」に専光寺の記載があり、当時においても北加賀の臨海荘園である大野庄の最有力本願寺派寺院と考えられていた。
加賀守護「冨樫政親」を滅ぼした1488年の長享一揆の際には、加賀の大坊主としての動向が「官知論」に記されており、「四山大坊主」の一員を構成していた。
蓮如以後、1493年には本願寺9世実如(蓮如の子)から、専光寺開基の志念絵像が下付されているものの、その2年後の1495年の「大野庄年貢算用状」には
専光寺に対する記述はなく、代りに「若松殿」(若松本泉寺蓮悟)宛て「弔料」などが記載されていて、この頃には賀州三ヶ寺の下におかれたらしいことがわかる。


   

「本願寺金沢別院」は、1546年に創建された「金沢御堂」を前身とし、別名「金沢坊」や「御山」とも呼ばれ、加賀一向宗の拠点であった。
金沢御堂は、1580年「柴田勝家」に攻略され、佐久間盛政の居城となるが、前田利家の金沢入城後、1592~1596年迄に、袋町に寺地を賜り本堂を再建した。
1611年には、3代藩主前田利常より、現在の寺地を拝領して伽藍再建に着手し、1615年に完成、寺基を移した。
度々火災に遭い、本堂は1849年に、経蔵は1866年に、鐘楼は1856年に、それぞれ再建され現在に至っている。

本堂は、境内の中央に東面して建つ、平入り、桁行9間、梁間8間の大規模な建築である。
屋根は、入母屋造り、本瓦葺で、向拝は3間の間口をもち、妻部に比翼の千鳥破風を付けた特徴ある外観である。本堂の平面は、前方に畳132帖の外陣、
44帖の矢来内を置き、中央後方に、二段高く床をあげた後門形式の内陣を配し、その脇に内陣より一段落として左右の余間、さらに余間の外側に三の間をとり、
内陣及び余間の後方に後堂を置く。本堂の外周は前面及び両側面に広縁と落縁を付け、後堂の背に後補の倉庫が付加されている。県指定文化財。


                   楼門                     本堂
    


鐘楼は、経蔵の東方に位置し、方一間の吹放しの入母屋造りで、屋根は桟瓦葺、軒は二軒扇垂木となっている。
基壇の上に礎盤を置き、その上に粽付丸柱を建て、貫は下から、腰貫、飛貫、頭貫(虹梁形)を入れ、頭貫上には台輪をめぐらせている。
組物は二手先(実肘木、拳鼻、尾垂木、支輪付)を詰組とし、中備に蟇股を配す。装飾的な組物と放射線状の扇垂木で構成される軒廻りは、実に多彩で、
江戸後期の禅宗様式を見事に見せている鐘楼として、貴重である。 県指定文化財

                              鐘楼                    親鸞聖人像
    

「照円寺」は、1603年本願寺は東西に二分され、加賀では本願寺派に止まる者はわずか19戸のみとなり、金沢御坊を守護する者もなく、そのために
照円寺4代「慶誓」は、3代藩主前田利常公の請いにより御坊守護職とった。
1608年本願寺より木像を賜り、照円寺と改め、1615年本願寺西末寺(本願寺派金沢別院)が現在地に再興されるに際して、照円寺は、留守居役として
再建勧進の中心的役割を果たし、加賀における西本願寺派の触頭として、また前田家の出城の役目も歴代にわたって務めたといわれている。


    
                   

「安江八幡宮」は、県内屈指の安産の神様・加賀八幡起き上がり発祥の神社と云われ、御守りの中に、稲穂の茎が入っていて、其の茎に節があれば男子、
節がなければ女子だと言う昔からの言い伝えがある。
八幡起き上がりは、社業繁栄・お子様の成長・厄除け・病気平癒・交通安全を御守りする。
神社で多くの方達が、安江八幡宮鳩、壮麗で、厳粛な結婚式を挙げている。安産のお参りは年間、800組の人達で賑わう。


    

安江八幡宮は宇多須神社,小坂神社,神明宮,椿原神社とともに金沢五社のひとつ、県金沢市此花町に鎮座


               境内                       拝殿
  


「石浦神社」は、越前国加賀郡に住む「三輪の氏子」が奈良時代に居住地に社祠を建て、大和国大神神社の神霊である大物主大神を勧請し「三輪神社」
と号したのが起源であるとか、聖武天皇の739年に勅を以て創建したとか、花山天皇の勅を以て創建した、或いは、717-723年に松浦氏の女性が大和国の
長谷観音を勧請して創建した加賀石浦の「長谷観音堂」が前身であるなどと伝承されている。
諸説があるが、古来より加賀郡石浦郷七ヶ村の総社として崇敬を集め、延喜の制で加賀郡13座中の「三輪神社」に列した式内社であるとされる。

社に勧請した大物主大神が近江国日吉神社の神と同体であるので、社を「石浦山王」、「地主権現」と称した。
大神神社の神宮寺である大御輪寺の本尊が十一面観音である関係から、本社の本地仏も十一面観音とし、「大和国長谷観音」と号し、1625-1643年末には、
「長谷山慈光院」と改めている。


  

金沢市に鎮座する「延喜式神名帳」加賀国加賀郡の「三輪神社」に比定される式内社論社で、金沢市最古の神社である。


                                    献上酒
  

「寺町寺院群」、寺町5丁目交差点から寺町3丁目交差点まで。

大円寺 大円寺は浄土宗のお寺で無縁仏の人骨を塗りこめられて作られた高さ4m以上の人骨地蔵尊が安置されている。人骨地蔵や庭園は有料で見ることができる。

寺町鐘声園 寺町鐘声園は大乗寺を含む寺町寺院群のお寺の鐘の音が「日本の音100選」に選ばれたことを記念して作られた回遊式枯山水庭園。休憩できます。

近江市場・武家屋敷・から犀川大橋を渡ると寺町に


立像寺 立像寺は日蓮宗のお寺で金沢市最古のお寺と言われている。飴買い幽霊伝説があり、本堂と鐘堂が金沢市指定文化財になっていろ。春には桜も咲きます。
本性寺 法華宗のお寺。富山の瑞龍寺、羽咋市の妙成寺・気多大社、小松の梯天満宮・那谷寺を建立した宮大工の山上善右衛門の墓がある。
実成寺 実成寺は法華宗のお寺。
妙法寺 妙法寺は日蓮宗のお寺。
昌柳寺 昌柳寺は本門沸立宗のお寺。七尾市の本行寺の下寺であり高山右近と隠れキリシタンゆかりのお寺。
善隆寺 善隆寺は日蓮宗のお寺。などお寺が集中している。

犀川に沿っ寺院群が
    


妙福寺 妙福寺は法華宗のお寺。内川のたけのこ(孟宗竹)の普及にかかわりのあったお寺。
本因寺 本因寺は法華宗のお寺。
長久寺 長久寺は曹洞宗のお寺。樹齢400年を越えるギンモクセイやケヤキなど由緒ある樹木が多い。芭蕉の碑もある。

高岸寺 高岸寺は日蓮宗のお寺。門の彫刻が見事。道路から見える全景はお寺の多い寺町のなかでも一際風格を感じさせる。

近くには、にし茶屋街が
    


寺町は町の名前が表すようにお寺が多く集まった町で残したい日本の音風景100選にも選ばれた。
寺町寺院群は江戸時代に一向一揆の対策として、この地に寺院を集められた。
寺町寺院群では忍者寺として知られる妙立寺が観光として有名ですが、その他にも土塀を破って道路に枝を伸ばした桜で有名な松月寺や人骨で出来た
地蔵尊がある大円寺、芭蕉碑のある願念寺、室生犀星ゆかりの雨宝院、樹林に囲まれた幽玄な風景が美しい龍渕寺、金剛寺、本覚寺など見応えある。


野田山方面に前田家の墓地
    

加賀藩の割場足軽付けだった「岡本右太夫」 が、1766年 に二株の「孟宗. 竹」を江戸から持ち帰り、桜木町にあった. 自宅に植えたのが始まり。
残念ながら この孟宗竹は枯れてしまい、 再び江戸から取り寄せたものという。


    

「野田山墓地」とは、金沢城から直線距離にして南西に約3.5kmほど離れたところに広がる一大霊園地。
野田山は標高約175mを測り、その山頂から山腹に広がる墓地の総面積は43万平方m、兼六園の約4倍の広さという。寺町の先になる。

市内は、江戸時代の町割りが残り、集中して面白い
  

加賀藩と幕府の関係が、敵も多かったのであろうお墓も防御に集中
  

犀川と金沢生まれの文豪「室生犀星」は、犀川をたたえ、詩や小説など多くの文学作品の中に表現し、犀川を愛してやまなかった。

犀川の畔に、「芭蕉の句碑」が、「あかあかと日はつれなくも秋の風」。1689年、「奥の細道」の旅で、金沢から小松へ向かう途中に詠んだ句。

                 金沢と芭蕉      犀川で一休
    

「犀星文学碑」は、生前、自分で建立した犀川岸別荘に、1959年に野間文芸賞を受賞した時の百万円の賞金で作ったらしい。
二手橋の三叉路の近くに「文学碑」があった。

                             井上靖 文学碑
    


次は、10万石の城下町大聖寺へ。

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