syuの日記・気まま旅

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金沢城と前田利家

2012-08-31 | 気まま旅
金沢駅前に出た。1898年に北陸本線が金沢まで開通し鉄道網が整備されていった。1919年に金沢ー尾張ー神胡桃の市内電車が開通、その後も小立野―寺町と広げている。
昭和2年、彦三町の大火後都市化の整備が本格化されたが、市街地の坂と橋と金沢七曲と狭く思うように進まなかったようである。
車時代に入り、交通渋滞と昭和38年の「三八豪雪」を経験し、1970年金沢港を開港、海と駅を結び、流通加工拠点の問屋センター、中央卸など設置、
1980年北陸自動車道、名神に繋がり、1992年北陸新幹線工事着工された。

近代的なガラス張の北陸中央駅 金沢


「金沢城跡」は駅から約2km、小立野台地に聳える平山城。1580年一向一揆を攻撃した「佐久間盛政」が尾山御坊跡に築城、1583年利家が金沢に入城後、
高山右近に命じて本格的城郭を建設した。
290年前田氏の居城である。面積27.7ha, 現存石川門、長屋、石垣、堀で、明治以降兵舎として使われ、金沢大学のキャンパスがあった。堀を隔てて兼六園が広がっている。

1546年、空堀や柵などを備える城造りの寺院であった尾山御坊(金沢御堂)が建立され、加賀一向一揆で加賀の支配権を得た本願寺の拠点となった。
1580年、佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、金沢城と改称して用い、1583年賤ヶ岳の戦いの後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)から加増を受けた「前田利家」が、
入城し、尾山城と改称。
1587年、バテレン追放令により除封されたキリシタン大名高山右近が利家に呼ばれ、尾山城の大改造を行い、金沢城に改称されたといわれている。
1592年、利家の子、前田利長が再び改造を行い、1602年、天守が落雷によって焼失、代わりに三階櫓が建造している。この頃から金沢城という名称が定着。


歴史を感じる落ち着いたお城の周り
    

平山城で、櫓を多用した構造。また、瓦には冬の積雪に耐えられるように、軽量であり、また、有事には鉄砲弾にもなる鉛瓦が用いられた。
本丸・二の丸・三の丸があったが、天守や三階櫓の焼失後は二の丸を藩主の居所とした。天守は再建されなかった。
あまり堅固な城とは言えず、有事の際は城下町にて敵を迎え撃つため軍事拠点として多くの寺が建立された。

そのうちのひとつが、「妙立寺」(通称忍者寺)の井戸には金沢城に通じる抜け穴があるとされる。城の周囲には、大手堀、いもり堀、百間堀、白鳥堀が存在。
現存するのは大手堀のみで、他の3つの堀は明治時代末から大正時代にかけて埋め立てられ道路などになった。
このうち、いもり堀は復元作業が行われ、2010年に再び水が張られた。


金沢城大手堀  黒門口(裏手になる)
  

天正8年(1580年)、柴田勝家が「金沢御堂」を攻略し、佐久間盛政が初めて金沢城主となり城郭整備に着手。賤ヶ岳の合戦後、前田利家が金沢城主となり、
3代藩主利常による1631年の大火後の造営で現在の城の縄張りがほぼ定まり、約300年間にわたって百万石余を領した前田家歴代の居城とした。

城の見取り図        所々に石垣が            広々とした城公園内           
    

「前田利家」は、父利昌の四男として尾張荒子城に生まれる。1558年 利家は22歳で10才年上の「まつ(芳春院)」を妻にする。
1561年 織田信長は 朝倉孝景(一乗谷城)・浅井長政(小谷城)連合軍と戦い勝利する。信長の命により家督を継ぐ、利家は、凡庸な兄「利久」を超、
仲間は利久をけなし、利家を褒めた。利家は・・・何ぞ其阿順(媚びること)を喜ばんや、と怒ったという。
加賀半国、越中国三郡を加増され、秀吉に臣従し五大老の一人、秀頼の後見役であった。

城の全景                   見晴らし台              大手堀からの城入り口            
    

「存如」は、1396年 本願寺6代巧如の長男として生まれ、1415年 蓮如が生まれる。妾腹だったため6年後母子は本願寺を出る。
その時の形見として渡されたのが”鹿子の御影”(蓮如の幼像)。1436年 巧如に本願寺留守職譲状を与えられる。
1439年 巧如没、本願寺7代法主に。1449年 蓮如と共に北陸に下り教化を行う。1451年 越前国丹生郡に石田山西光寺を建立。
1457年 越前教化の途中没。蓮如が8代法主になる。

「存如廟」
本願寺7代の存如は越前教化の途中西光寺にて死去した。そのため西光寺の近くに廟所が建てられた。しかし江戸時代に金沢城で存如の遺骨と思われるものが
見つかった。そのため本願寺ではこの西光寺廟所と金沢との両方を廟所としている。

お城の近くにある
    

「真宗大谷派」は、 宗旨は親鸞聖人を宗祖とする「浄土真宗」真宗ともいう。真宗大谷派は浄土真宗の教えを奉じている。
本山は「真宗本廟」(京都市)親鸞聖人の廟所、お墓が寺院化した。「東本願寺」「お東さん」と呼ばれている。 本尊は阿弥陀如来。
大谷派は、北陸や東海(静岡を除く)に多い。

宿坊                                  境内                  本殿
    

「尾崎神社」は、金沢城丸の内に、1643年四代藩主前田光高が、徳川家康、前田利常、天照大神を祀る社殿である。権現堂、とも東照宮とも呼ばれた。
1874年 尾崎神社となる。重要文化財に、本殿、厨子、中門、透塀、棟札がある。例祭は6月。

金沢城丸の内鎮座           楼門
    

「尾山神社」は、尾山町に鎮座、旧別格官弊社。

                        拝殿  


祭神は、藩主前田利家・利長・利常。
1873年、卯辰八幡宮(藩の祈祷所)を金谷御殿跡に移動し、尾山神社を創建した。神門は和洋折衷の三層楼門ステンドガラスがはめられている。
東大の役割も兼ねてたと云う。池泉回遊式庭園は、名勝。

金沢市内繁華街片町近く          和洋折衷の神社
    

東門は、桃山風の二の丸唐門を移築されている。重要文化財に蒔絵朱鞘大小刀二口は前田利家遺愛の品。

「母衣」
武士の組織化が進んだ戦国時代、赤や黄など目立つ色で着色されており、敵味方からも識別しやすい母衣は、大名の精鋭の武士や、本陣と前線部隊の間を
行き来する使番に着用が許される名誉の軍装として使われ、矢を防ぐともいう。

織田信長が馬廻から選抜して使番として用いた黒母衣衆・赤母衣衆や、豊臣秀吉の黄母衣衆などが有名、江戸時代の諸藩の中にも、藤堂家、仙台伊達家など
母衣衆を置く藩があった。信長の母衣衆は地位としては赤母衣衆と黒母衣衆に格差はないものの、「利家記」には戸田勝成が前田利家に「赤母衣は少下、
おぼへもうすきやうに申候」と語っており、メンバー的にも黒母衣衆がやや年上であったと考えられる。

                母衣姿の武将像


神門をくぐると、正面に社殿があり、後方に流造りの本殿。本殿の右手には、摂社・金谷神社。境内の右手には池があり、回遊式庭園になっている。
池の前には、利家公の像と、正室お松の方を刻んだ石碑があった。

神水                 境内                   拝殿
    


、戦国武将・前田利家の正室、「芳春院」
芳春院は、1547年 -1617年 名はまつ。篠原一計の子。母が利家の母の姉である為、利家とは従兄妹関係にあたる。
女性でありながら学問や武芸に通じた女性であった。


整備された日本庭園境内                      力石
    


芳春院の菩提寺は大徳寺。前田利家の妻として、武将時代からの夫を支え、夫亡き後は、みずから人質となる苦労を担いながら、加賀百万石を確立・存続させた。

前田家の兜           利家の妻お松の碑             古木の境内
    

次回は、兼六園など。

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2 コメント

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Unknown (matsubara)
2012-08-31 16:56:57
48年前の学生時代金沢に旅したとき
友人と金沢大学に寄りました。
もう今はお城の中ではないのですね。

15年前に何気なく寄った尾山神社のことも
思い出しました。
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matsubaraさま (syu)
2012-08-31 22:49:45

ごほうもんありがとうございます。何時までも暑さが続きます。
ホントによくどこもおでかけになっていますね。
東京に住んでいてもあまり出かけていませんので、
ブログは有意義に生きています。
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