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岡城 三河 諸国古城之図を参考にして昔の姿を想定して楽しむ

2024-05-27 | 歴史

三河・岡城は愛知県岡崎市岡町にあります。岡城は全国に多数ありますが諸国古城之図では 三河額田_岡村 となっています。岡城は岡崎城の徳川家康が今川方から攻め取りましたが、関東移封後には上洛の際に岡崎城に入らず、岡城を岡村御殿と称して宿泊所として度々利用したと伝わります。諸国古城之図に残された姿は、岡村御殿を描いていると思われますが、絵図が描かれた当時にはかなりの部分の遺構がすでに失われ、民家が建ち並んでいたようです。今回は、絵図を参照しながら現地にわずかに残る遺構、古い地図、航空写真などを参考に往時の岡村城の姿を想像・想定して楽しみたいと思います。
広島市立中央図書館所蔵  浅野文庫「諸国古城之図」より「三河額田 岡村」  
 ※上に掲載の絵図は広島市立中央図書館の承諾を頂き提供を受けた画像を使用しています。
図の中心部の土塁で囲まれた部分には、樹木が描かれています。現地を見学に訪れた時に付近にお住いのご婦人に「何年か前に、城跡の大木が大風で倒れたので、運び出したが、徳川家康公の御手植えの木ということで、一部を切り取って村中の船山神社に運んだが、現在どうなっているかは知らない」と伺いました。絵図に描かれている樹木が、その大木ではないかと思いました。※後日 船山神社に行ってみましたが、境内の社叢には切り倒された大木が多数転がっていましたが、岡城の大木の一部を見つけることは出来ませんでした。

岡城 東海道に近い岡村(岡町)の乙川沿いに立地
 三河の大河 矢作川に流れ込む乙川と支流の山綱川、竜泉寺川に削られた細い台地上に立地し、南東側を東海道が通っていました。乙川を渡る国道1号線は近年の建設で、古くは図中の大平橋が使われていました。

岡城 住宅・耕作地などの開発で残された遺構は少ない 見学路はC
 絵図に描かれている遺構のほとんどは失われ、残された遺構もどの部分かは不明確でしたが、とりあえず城址碑のある場所を主郭部として見学しました。そうしてみると残されているのは土塁①と④と堀②でした。

岡城 見学路C入口 南から
 往時のメイン通路だったかどうかは「要検討」ですが、現在の見学路Cはここから入ります。付近の住民の方が岡城の入口をよく尋ねられると仰っておられました。

岡城 見学路C  奥に案内板 右に土塁④ 南から
 土塁④は案内板近くの道沿いにありましたが、ブッシュの中で最初は気付かずに通り過ぎました。見学路を奥に進むと主郭部分には城址碑が立っていました。

岡城 土塁④ 北西から
 原形は不明ですが、密集した竹林の中にL字型に土塁が残っていました。絵図のどの部分にあたるのかは「要検討」でした。

岡城 土塁① 南西から 手前に堀② 見どころです
 残存する遺構が少ない岡城ですが、見どころはこの土塁と堀でした。土塁は北側に短く折れて残っていました。絵図によると長さは三十九間(70.5m)となっていましたので、東側は住宅によって消滅したようですね。この土塁と堀が、絵図のどの部分にあたるのか「要検討」です。

岡城 土塁①上面  西から
 土塁は東側が少し低くなっていましたが、往時の地形か後世の変形かは不明でした。土塁は登ってみると高さが実感できますので、土塁の見学では可能な限り登って見るようにしています。

岡城 堀② 西から 堀幅四間 ここも見どころ 左に土塁①
 絵図では
堀幅は四間(7.2m)で長さは70m程とありましたが、今は住宅となり土塁と共に東側は消滅したようです。土塁と同様西端部は北側に短く折れて残存する意外に幅広の堀でした。風化や周囲の宅地化などでかなり埋まっているようですが、幅はほぼ残っているようで、見どころでした。

岡城 堀③ 南から 北端は乙川の崖まで続く
 堀③は堀②が北に折れた部分につながっていたようでした。かなり埋まって不明瞭でしたが、なんとか辿る事が出来ました。周囲は整備された竹ヤブで、タケノコ堀の男性が居られ「自分が動けなくなったら荒れてしまうだろう」と言っておられました。

岡城 道f 中間部 北から
 絵図に描かれている西側の土塁と堀を探して藪を西に進むと、堀状の地形に出会いました。地形としては城側が高くなっていますので、絵図の堀かとも思いましたが、道fの北端部は乙川の水面が近いので乙川への道かもしれません。そういえば先程のご婦人が「昔は、道fを通って乙川で遊んだ」と言っておられました。道fも「要検討」でした。

岡城 南側の道e 西から 左側が城内 右下に田地g
 絵図の書き込みによると城域の南側に土居が在ったが「この土居 今は無し」となっていました。原形は不明ですが、石垣が積まれて城内側が道路よりも一段高くなっていました。

岡城 道路南下の田地g 城域との高低差は6mほど 西から
 絵図によると土居の南側に道が有ったようで、その南下に当時も田地が在ったようです。この辺りは古くは竜泉寺川や山綱川が乱流していた場所だったようですね。

岡城 城域東側の田地a 左に城域東辺の崖 南から
 絵図によると、城域東側の低地は当時から乙川に削られた田や畑だったようですが、現在でも大雨で乙川の水位が上がって大水が出ると水害が起こる場所になっています。城域東側は乙川の水流に削られ崖になった地形の様だと思いました。崖の高さは絵図では四丈(12m)程で険阻なりとなっていましたが、現況は7m程の高低差と思われます。絵図の四丈は崖の斜面の長さかもしれませんね。

岡城 北東端下の岩盤b東から
 城域の北東隅の乙川との接点には岩盤がありました。乙川によって削られてきた台地の浸食が岩盤によって止まった地点ではないかと思いました。絵図の描かれた時にはすでにここまで侵食されていたのかどうかは確認できませんでした。

岡城 絵図と現地見学結果の結果を照合して往時の姿を想定する
 絵図に書き込まれている寸法で地図上の土塁①や堀②を主郭部に再現すると、城域東辺いっぱいまで在ったことになりましたがどうでしょう。大手口は南東隅にあり、南側に枡形虎口を設け外枡形の西側にメインの道があったように見受けられます。

岡城 大手道を推測する
 図3の外枡形の西側に通路が在ったとすると、メインの道は現在の見学路Cではなく、今は住宅で行き止まりとなった道dではなかったかと想像しましたがどうでしょう。

絵図の道eの書き込みを見ると「この口より大平橋まで四丁十四間(461m)」となっていますので地図上で確認すると道dを起点として430m、道Cを起点として456mでした。この結果を見ると寸法は案外正確ですので、絵図に書き込まれた寸法は実測値の可能性がありそうです。ということは実測値の書き込まれていない土居(土塁)ア・イ・ウや外周の堀などは想像図の可能性がありそうですね。この推測からすると残欠土塁④は主郭虎口東側の土塁だった可能性がありそうに思いました。西側の土居と堀も正確な位置が示されていないとすると道fが堀の可能性もアリかもしれません。岡城は遺構の残りは少なかったですが諸国古城之図のおかげで興味深く楽しく見学が出来て良かったです。


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