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滝川城 近江 大手道どこか?滝川一益ゆかりの城 興味深い遺構が多数

2024-02-27 | 歴史

滝川城(五反田城)は滋賀県甲賀市甲賀町櫟野小字五反田にあります。滝川城は櫟野一帯を支配した滝川氏一族の本拠とされ滝川一益が在城したゆかりの城として知られます。附近には甲賀の巨刹 櫟野寺が在り、周りを取り囲むように展開している滝川氏の城郭との関係性も興味深いです。今回の参考資料は「甲賀市史 第七巻 甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010 などです。※付近の櫟野大原城その1は→こちら

滝川城 上、中、下ノ組は櫟野寺に関連した地名か
 櫟野寺は延暦寺の有力末寺で甲賀六大寺の筆頭として往時は多数の末寺があり、寺領は広大であったとされます。戦国期には滝川氏に寺領の多くを奪われたのかもしれないと想像しましたがどうでしょう。

滝川城 櫟野川越しに櫟野寺が良く見える  
 滝川城は櫟野川を水堀に見立て西に滝川西城、川の向うには滝川支城を配し櫟野川沿いを西から侵入する敵に対する備えが厳重だったと想像しました。

滝川城 大手道はどれか?  後世の耕作地化で確認が難しい
 資料によると、滝川城は後世の耕作地化で、一部の地形が改変を受け、往時の遺構が失われた部分があるとされます。Ⅰ郭への道aが明確でしたが山ノ神の参道になっているようで、往時の大手道としては防御性が乏しい様に思えますので、他に大手道があったかもしれないと思い、その点を考えながら見学しました。 

滝川城 城域東側の平場16と案内板の立つ平場15の間に城道がある
 櫟野川に架かる観音橋から城址への道を進むと平場16と15の間に道がありました。

滝川城 道a 奥上にⅠ郭 右手に小尾根14 東から
 道aは今も山ノ神の参道として利用されているようで、踏跡がしっかりついた道になっていました。小尾根14は天端が削平されていました。

滝川城 道a Ⅰ郭北東隅の開口部8 東下から 右に土塁4の東端部
 道aが大手道だとすれば、開口部は虎口ということになりますが、Ⅰ郭の大きさに比べてやや貧弱な虎口ですね。

滝川城 Ⅰ郭 北辺の山ノ神 手前の土坑は祭事の焚火の土坑か
 Ⅰ郭北辺の土塁4と5は高く、しっかり残っていましたが、中央部分が山ノ神の祭壇で掘り下げられていました。資料によれば山ノ神が祀られたのは後世のこととされます。

滝川城 Ⅰ郭 山ノ神側から 奥に土塁2と3 
 Ⅰ郭は後世の耕作地利用があったようで今は植林が行われていましたが丁寧に削平され、面積が広かったです。木の太さから見ると近年の植林のようですね。

滝川城 Ⅰ郭の土塁で囲まれた溜池1 西から 水が見える
 Ⅰ郭の南辺には土塁で囲まれた溜池1がありました。資料によるとⅠ郭が耕作地だった時の溜池の可能性が記されていました。今も溜池の底にはうっすらと水が見えました。土塁の北西隅には開口部がありましたが、使わなくなった時に開削した可能性がありそうに思いました(安全のため)。

滝川城 Ⅰ郭 南辺土塁2 土塁3から
 土塁2は滝川城の最高所でした。土塁は幅広で西の方角の見通しもよさそうですので物見台の可能性がありそうでした。

滝川城 Ⅱ郭 北から 害獣フェンスが設置されている
 Ⅰ郭からⅡ郭へは狭い通路18を通りました。改変があるようなので狭い通路18も往時の姿と違っているのかもしれません。Ⅱ郭の多くの部分には害獣フェンスが張り巡らされていました。

滝川城 堀切19 西から 左にⅠ郭 右に尾根13
 堀切19は堀底が幅広の平場で、切通か後世の耕作地のようにも見えました。ヒョットすると堀切の役割ではなくⅠ郭の切岸の高さを造り出すのが目的だったのかもしれないと思いました。

滝川城 尾根13 天端は三段に削平されている 東から
 堀切19の南側の尾根は削平され、写真のように三段になっていました。ヒョットすると耕作地として利用していた可能性もありそうでした。

滝川城 Ⅰ郭南下の平場17 奥に平場10のある小尾根 北東から
 次に平場15から平場17を通り平場11ヘの道bを見学します。途中、道が一部崩落している部分がありました。

滝川城 平場11から一段上の平場12を見る 南から
 道bを登って来ると平場11に出ました。ここから折り返して平場10へ向かう道が有った可能性がありそうでした。

滝川城 平場11から 右に道bの登り 左に平場10への道 西から
 資料によると道b付近は後世に手が加えられているとありましたが、現況は崩落もあり、不明確な部分がありました。平場11から平場10への道の現況は踏跡が残りますが狭かったです。

滝川城 平場10 平場11からの道がここに通じていた
 平場11から平場10への道は踏跡が残りますが現況は狭かったです。

滝川城 写真左・平場9南西から    写真右・平場9の残石  興味深い遺構です
 平場9はⅠ郭東辺に張り出した半ば崩落して原形がハッキリしない平場でしたが30cm位の石が残欠平場の周辺に多数ありました。そこで、平場9は斜面に突き出した石積の平場だった、平場10からの大手道が接続していてⅠ郭への入口に設けられた重要な平場だった、と勝手な想像を膨らませてみましたがどうでしょう。

滝川城 Ⅰ郭西下のⅢ郭 北端の開口部 道Cが有ったか
 Ⅰ郭からⅢ郭へは害獣ゲートがあって直接いけませんので、一旦観音橋まで戻り櫟野川の堤防道路を通り西側から入りました(図2参照)。資料によると耕作地として利用され改変の可能性が指摘されていました。道dを進みⅢ郭の西辺切岸を登りましたが、後世の農道のようでした。Ⅲ郭北辺の開口部からの道Cが古い道だったかもしれません。

滝川城 Ⅲ郭南端部 北から 右に土塁地形21 奥上にⅡ郭
 Ⅲ郭は耕作地として改変があるとされますが、西辺の切岸は高く、Ⅰ郭との切岸と併せて西方向への備えとなっていたように感じました。土塁21がⅢ郭からⅡ郭への通路として用いられていた可能性もありそうでした。

滝川城は大手道を探りながらの見学でした。多少の改変はあるものの、興味深い多くの城郭遺構の残りが良くて楽しく見学ができ良かったです。