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大給城 三河その4 岩山に築かれた多数の遺構が完存する大規模な山城を徹底見学する

2023-06-27 | 歴史

大給(おぎゅう)城は愛知県豊田市大内町にあり松平氏の一族が城主と伝えられています。その4では北側の特徴ある水の手曲輪を中心に見学したいと思います。資料によると織田・今川の境目の城だった大給城を松平忠成が「大給城北沢水手」で攻めて戦功を挙げ今川義元から感情を受けたとされます。当時の大給城は北側の沢筋が弱点だったと思われ、今見る規模の大きな水の手曲輪はその後の改修とも考えられ大給城の見どころの一つとなっています。 ※これまでの大給城はこちらから その1   その2  その3 
 今回の参考資料は (1)「豊田の中世城館」愛知中世城郭研究会1992  (2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994  (3)「愛知の山城ベスト50を歩く」愛知中世城郭研究会・中井均編2010  (4)浅野文庫「諸国古城之図   三河加茂 大給」広島市立中央図書館所蔵 などです。 「諸国古城之図   三河加茂 大給」 は  大給城その1 をご覧ください。


大給城 水の手曲輪は城域北側の沢筋に築かれている
 大給城の水の手曲輪は、全国的に見ても稀な大規模規模な水の手曲輪遺構と言われ、必見の城郭遺構です。


大給城 水の手曲輪は石塁N 、石塁Qの二段構え
 絵図の北側に「水手カ」と記された部分がありますが現況との照合が困難でした。腰曲輪6は大堀切Aから続く東側の防衛ラインの一部で、北側の
大きな竪堀Hへと続いている様でした。


大給城 腰曲輪6 北から 奥に大堀切Aが見える
 腰曲輪6から竪堀Hまでの間は城内側から撃ち下ろしの攻撃が出来る構造で、東から武田軍が三河に侵攻したときに、侵入に備えて強固な防衛ラインを敷いていたと思われます。


大給城 腰曲輪6の北端部奥に石塁69が見える 石塁69の手前に箱堀68
 腰曲輪6の北端部は箱堀68と石塁69で東からの侵入を厳重に防ぐ構造の様でした。


大給城 箱堀68 堀底の南西から 左に石塁69の石垣
 腰曲輪6の北端部の箱堀68は少し埋まっているようですが、石塁69とセットで腰曲輪6側からの侵入を防いでいたようです。


大給城 堀切66と端部の石垣 北西から  
 平場67は東の谷筋を見下ろす位置にあり東側の防衛ラインの一部だったと思われます。堀切66はその背後にあり土塁65とセットで二重の守りになっていたと考えられます。堀切66の南端部は写真の様に石垣になっていました。写真の右奥上には櫓台63があり撃ち下ろしの備えとなっていたようです。


大給城 虎口64 北東から  奥に帯曲輪61の東端部 右に土塁65 
 虎口64は帯曲輪61から平場67への通路で土塁65側に石垣が積まれていました。左手上には櫓台63があり撃ち下ろしの守りとなっていたようです。


大給城 上段の水の手曲輪D 奥に石塁Nと中央部の越水口 南から
 大給城の水の手曲輪は2段になっていました。上段の土塁Nは石垣が積まれた堅固な構造で土塁というよりも石塁の様でした。平場Dの周囲は帯曲輪61と両側の尾根筋の備えで厳重に守られていたようで、遺構の残存状態は良好でした。


大給城 石塁N 左手に水の手曲輪D  東から 奥に平場77 見どころです
 土塁中央部には越水口と思われる凹構造が在り、遺構の残存状態は良好でした。大給城の稼働時には水の手曲輪Dにも井戸があったかもしれません。


大給城 石塁N  北側下の石垣 北下から
 石塁Nの北側下には石垣の補強と思われる石積が2段積まれていました。「大給城北沢水手」での戦いの記憶が鮮明で、こんなに念を入れた石塁の構築が行われたのではないかと想像しましたがどうでしょう。


大給城 下段の水の手曲輪Eと石塁Q 南から 中央に越水口
 水の手曲輪Eは大きな平場で、水を貯めるというよりも兵を溜めて沢筋を守るのが役割だったのではないかと思いました。


大給城 水の手曲輪E 石積遺構73 井戸か
 水の手曲輪Eには三方が石組の井戸状の遺構73が在りました。今は埋まっていますが、城の稼働時には水を湛えた井戸だったのではないかと想像しました。水の手曲輪Eは削平が滑らかではありませんが石塁Qで守られた平場に将兵を多数配置できそうでした。
 

大給城 下段の水の手曲輪Eの石塁Q 東から  見どころです
 下段の水の手曲輪の石塁Qは上段の水の手曲輪の石塁Nよりも残存状態は良くありませんが、そのボリューム感は圧倒的でした。


大給城 下段の水の手曲輪の石塁Q 北東下から 見どころです
 石塁Q付近は地山の岩盤があるようで、石垣の崩落もあって不規則な石垣遺構が残されていましたがそのボリューム感には圧倒される見どころでした。


大給城 水の手曲輪E東側の大きな竪堀H 南上から  左に竪土塁70
 大給城の東側に大きな竪堀Hと竪土塁70を築くことで、大堀切Aから続く長大な東側防衛ラインが構築されているようでした。


大給城 平場77 西から 奥に低土塁
 水の手曲輪Qの西側には平場77が在りました。平場77の東辺には低い土塁が残っており、大給城があくまで東に向かって備えていた印象でした。


大給城 北尾根を断ち切る大きな堀切J 西から
 大給城の北下を通る挙母街道からの侵入を防ぐための防御設備として北尾根を断ち切る堀切Jが設けられていました。2段の水の手曲輪と堀切Jのセットで守りを固めていたと思われます。


大給城 北側山下の長坂屋敷への城道を探す
 大給城は松平信光に攻め取られる以前には、長坂新左衛門が初期の城を築いていたと考えられるとされます。長坂屋敷からの城道があったとすれば図2の尾根道eが考えられますので、堀切Jから北尾根を辿って下りました。


大給城 山下の古い道
 大給城から北尾根を下りましたが、尾根筋には道や踏跡は見当たりませんでした。途中に尾根を削り段になった小平場がいくつか見られましたが城郭遺構かどうかは不明でした。尾根筋を下ると旧道(挙母街道)よりも古い道に出ました。いわゆる薬研道の部分もあり、この道を東に辿ると旧道(挙母街道)へ出ることが出来ました。古い道は西側の長坂屋敷の方向にも延びていました。薬研道は多くの人が歩いた道と言われますのでヒョットすると、挙母街道以前の道かもしれないと思いますので機会があれば西側も辿ってみたいと思いました。

大給城は三河地方最大級の大規模な山城で、複雑な遺構の構造などの残りが良く、大岩の景観とともに大満足で楽しめて良かったです。見学をされる方は事前に縄張図を入手されて、時間の余裕を大きくとることをお勧めします。4回に分けて見学した大給城ですが今回が最終回です。 ※これまでの大給城はこちらから その1   その2  その3


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