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三河・広沢城 猿投山の中腹に築かれた山城。崩れやすい尾根道に竪堀、堀切地形が多い

2020-09-24 | 歴史

広沢城は愛知県豊田市猿投町にあります。  猿投は「さなげ」と読みます。
 広沢城の築城時期、築城者は明確ではないようですが、伝承によれば(旧)小原村の市場城の城主だった鈴木氏が、元亀の頃の武田氏の奥三河への侵攻時に市場城から逃れて、ここに築城したともいわれます。
 城址が所在するのは猿投神社に近い猿投山の南山麓ですが、現在の猿投山はハイキングの人気スポットとなり、山にはハイキングコースが縦横に設けられているため、往時の城道がどこだったのか、よくわからない状態でした。
 城址のある山の地質は花崗岩の風化が著しく、表面は風化した真砂土が覆っていました。そのため城址への尾根道は崩れやすく、尾根両側には堀切や竪堀に見える地形が多数ありました。
 今回の資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994と (2)「史跡散策 愛知の城」山田柾之著1993 です。


広沢城 赤線は往時の城道を探して3回に亘って訪れたコースの軌跡。
 資料(1)の縄張図を見ると、南側の尾根に堀切がいくつも設けられているので、南側の尾根を登ってみましたが、明確な踏跡は見えませんでした。ネット情報では東側の東昌寺側からの道も紹介されていましたのでこちらからも登ってみました。この道はハイキングコースにもなっているようで、尾根道には踏跡がしっかり付いていました。図1の主郭下に立つ案内板も東を向いていました。


広沢城 現地案内板の縄張図  ※案内版には 原図 石川浩司 となっていますが、正しくは石川浩治さんです
 案内板には「城主は不明、一説には小原市場城の鈴木氏ともいわれています」となっていました。
案内板の縄張図は資料(2)掲載のものと同じものでした。縄張図の様に、⑤よりも南の尾根にも堀切、竪堀状の地形がいくつもありました。南側山麓の尾根にはこれ以外にもいくつかの竪堀、堀切地形がありましたが城の遺構としては図2の⑤、②、⑥の範囲ではないかと思いました。


広沢城 最高所①の削平地と土壇 主郭と思われる
 三方向の尾根の交点の最高所に主郭と思われる遺構①がありました。主郭内の土壇は尾根の削り残しではないかと推測しました。土壇上には特別な地形はなくて、ハイク道の踏跡がハッキリ付いていました。①の周囲は、ほぼ自然地形に見えました。①の東側下に案内板が立っており北東尾根の⑥へ向かう道がありました。


広沢城 東尾根の平場②。尾根の高まりを削平している
 平場②の南北は自然地形の斜面の様でした。西側は少し下がって③の堀切地形がありました。平場の東端部も、ほぼ自然地形の様でしたが、少し急な法面になっています。平場⑥には土塁はありませんでした。ここにもハイク道が通っていました。


広沢城 平場②から尾根の堀切③を見下ろす
 平場②の西下の尾根に堀切③が設けられていました。縄張図によると黄色の点線部を竪堀状の堀切としているようですが現地で見ると、尾根の崩落地形のようにも見えました。ヒョットすると白色の点線のように尾根の両側を掘り切っていたのかもしれないと想像しました。土橋状の道はハイク道で、踏み固められていました。


広沢城 南西尾根の平場④の先端部の切岸 南西下から
 主郭から南西に伸びる尾根には3段の平場がありました。風化のためか切岸はあまり明瞭ではありませんが、3段とも人の手が加わった遺構で、土塁はありませんでした。この尾根もハイク道が通っていました。


広沢城 南西尾根の堀切と土橋⑤ 南西から  円内が堀切と土橋⑤  奥が主郭方向
 広沢城の主郭(最高所)から伸びる尾根は途中で分岐しながら何本も山下に下っています。城道を探して歩き回りましたが、どの尾根にも堀切状の地形がみられました。主郭を中心に城郭遺構として考えると堀切だけが離れた位置にあるとは考えにくいと思いましたので南西尾根は⑤までを城郭遺構と勝手に決めましたがどうでしょう。


広沢城 北東尾根先端部の平場⑥ 南西から
 主郭から⑥への道は、細い尾根道でハイク道になっているので、2組のハイカーに出会いました。平日でしたので、メインではない山道で人に出会ったことにビックリしました(相手もビックリ!)。
 平場⑥は尾根を削平して平場を造っていましたが、狭い尾根ですから平場の幅は狭く、元の尾根の形が少し残っていました。北東尾根の両サイドにも崩落地形が竪堀や堀切に見える地形がたくさんありました。

 広沢城は鈴木氏が市場城からの一時避難で築いた城郭だとすれば、短期間の稼働だったので、全体に土木量が少なくて切岸や堀切も、いわゆる「甘い」造りだったのではないでしょうか。あるいは崩れやすく、もろい地盤のために風化が早くて、あいまいな地形が多いのかもしれないととも思いました。
 往時の城道を確認することは出来ませんでしたが、遺構と自然地形を自分なりの判断で楽しみながら見学できました。