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三河・長篠城から岡崎城へ鳥居強右衛門勝商が救援を求めて往復した道 その1 宮崎街道編

2020-07-24 | 歴史

天正三年五月 武田勝頼の大軍に包囲された長篠城の籠城将兵400人は次第に追い詰められ、鳥居強右衛門が単身夜陰に紛れて長篠城を脱出し、岡崎城の信長・家康に救援を訴え取って返した道の一部が宮崎街道です。
 今回は(1)「奥平氏と額田」額田町教育委員会2005、(2)「鳥居強右衛門 」金子   拓2018、(3)「岡崎市東部地域遺跡詳細分布調査報告書」岡崎市教育委員会2010、2万分の1 国土地図 明治23年測図、5万分の1 国土地図 大正7年修正測図 を参考資料として出掛けました。 ※その2は→こちら  その3は→こちら その4は→こちら 鳥居強右衛門の名前をご存じない方でも下の写真はご覧になった方が多いのではないでしょうか。

落合左平次道久背旗 鳥居強右衛門勝高逆磔之図 東京大学史料編纂所所蔵
 鳥居強右衛門にまつわる逸話は「諸説 多数あり!」ですが(1)によると天正三年に長篠城に籠城した将兵400人のうち250人は城主奥平信昌一族の奥平勢で150人が家康が派遣した応援部隊だったとされます。奥平信昌は長篠城城主として入城する前は宮崎村の明見にいたとされます。
 長篠城から岡崎城までの距離は当時の道で片道約65kmといわれています。天正三年五月十五日の夜陰に紛れて長篠城を出発した強右衛門は翌日岡崎城に到着、信長・家康の援軍の知らせを持ってその日のうちに岡崎城をたち、十六日には長篠城付近まで帰ったところで武田軍に捕縛され、磔刑で死去しました。
※(2)によると背旗を作ったのは徳川方だった落合佐平次道久だった。逆磔ではなかった。背旗の裏にも同様な図が描かれているなどの興味深い研究成果が示されています。
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宮崎街道 図1 長篠城址史跡保存館の強衛門がたどった道。中央四角の中が今回取り上げた宮崎街道
 強右衛門の道は諸説が入り乱れていますが、ここでは長篠城址史跡保存館に展示されている図を参考にしました。明見は65kmの中間点に近く明見から岡崎までは約30kmほどだったと思われます。多くの伝承では強右衛門は徒歩で往復したようになっていますが、長篠城を脱出し明見まで来れば、多くの将兵を長篠城へ送り出している味方の地ですから、馬の利用、同行者などの最大限の援助が得られたはずという説があります。
※宮崎村は図1の牧原、石原、亀穴、明見の範囲


宮崎街道 長い歴史の中で幾度もルートが変わった
 今回取上げる宮崎街道は明見から淡渕へ抜ける道で、明見坂とも言われていたようです。新・旧地図を見ながら現地を歩いてみると、かなりの道が残っていることがわかりましたが、少なくとも図2のようなルートを確認することが出来ました。


宮崎街道 道C  明見集落中央を通る古い道に接続する 図2参照
 明見集落の中央を貫く古い道から尾根の先端部の台地に登るがありましたが今は自動車が通れる少林寺に向かう新しい道が出来て、古い道は使われていませんでした。道に抜ける道が確認できる一番古い宮崎街道のようで明見集落の道につながっていました。
 ※写真奥の平坦地には奥平氏一族の田代屋敷、主計屋敷などが有った。


宮崎街道 明見集落からの古い道から尾根の先端部の台地に道は登っている
 台地の東端部まで登った道は西に向けて続いていました。道の両側の石積はこの地方の台地を形造っている片麻岩が積まれています。石は豊富なので強右衛門が通った頃にも積まれていたかもしれないと勝手に想像しました。


宮崎街道 台地の途中の切通? 削平してないのはなぜ
 台地上の土地の高まりは切通の道となっていました。写真右側の切通端面には石積が見られました。耕作が少しでも欲しいのに削平しなかったのは、表面からでは見えませんが、岩石があって削平が困難だったのかもしれませんね。位置からすると虎口、土塁の可能性はなさそうでした。


宮崎街道 古い道C 東から  左手の平坦地が明見城
 台地を横切るように道Cが伸びています。資料(3)によると写真左手の平坦地に明見城があったとされます。明見城の存在が示されている他の資料はあまり見かけないように思います。

 
宮崎街道 道Cが北側に回り込んだ部分 左下に妙慶から流れる川
 道は確認できた宮崎街道の中では一番古い道ですが、意外に明確に残っていました。山仕事で最近まで使われていたのか? 岩盤を削って作った道で風化が少ないのか?  強右衛門が通った頃もこんな道だったか?など、あれこれ想像しました。
 道Cは川を渡ると道に接続して尾根を越えて淡渕に下っていました。川は丸木橋程度の橋で渡ったのではないでしょうか。


宮崎街道 道b 明治23年の地図に載っているが、自動車の道で拡幅され、道aは途中で切断された
 道の道Cとの接点より南側は後に造られた道で、現在の県道付近にあった橋を渡って明見に向かっていました。現在の県道ができると道は役割を終え、道も自動車が通る道に拡幅され道は途中で「ブチッと」切断され、今は端面が道の上に見えていました。


宮崎街道 道aの峠は切通道で両側に石積が積まれている
 明治の道は荷車が通れる道として造られました。そのため峠は深い切通道が開削され、両サイドは石積で補強されていました。現在は使われなくなった道ですが石積はほぼ完存状態でした。切通道は切り捨ての間伐材などで埋まりかかっていました。ヒョットすると切通の尾根は岩盤だったのではないかと想像しました。


宮崎街道 切通道の東側に建つ「宮崎街道の碑」 南に登ると黒谷城に至る   
  道は明治の半ばになって開発された道で、道の開通の記念碑が建てられています。それまでは道を使って人の背か牛馬の背中でしか荷物の運搬の手段がありませんでした。この道ができて荷車が通るようになったので、建築材としての木材搬出が村外にできるようになり交易も活発になった宮崎村の村民の喜びはとても大きかった言われます。
 ※建築材として木材の出荷ができるようになったので宮崎村の山林価格が3倍に跳ね上がったそうです。

:道ができる以前の古い宮崎街道で、尾根の峠の西側は傾斜が急で九十九折の歩く道になっていて荷車は通れませんでした。

:道Cに接続する道ですがどの時期に使われたかはハッキリわかりませんでした。


宮崎街道 ルートa 図2ア付近 岩盤を削って荷車が通れる道を作る難工事だった 右手崖下に現在の県道
 黒谷城のある尾根を含め、一帯は岩山で、当時の人力のみの工事は、さぞかし大変だったと思いました。土地の古老の話ではルートの切通の下にトンネルを掘って、県道を直線道路に改修する案が戦後何度も持ち上がったが工事の困難さや資金の面で立ち消えになったそうです。


宮崎街道 ルートaア付近の崖下 県道工事で削り取られた岩壁
 県道工事では、道のギリギリまで岩盤を削って県道を造ったため垂直の岩壁になっています。崩落防止ネットで支えていますが、少しずつ崩れているようです。


宮崎街道 道aの入口 現在の県道から入る 淡渕側から見る
 明治半ばの道aの淡渕側からの入口はわかりにくく、入ってしばらくは藪こぎ状態でしたが、先にゆくと道がはっきりしてきました。

 古くは鳥居強右衛門が通り、明治には宮崎村の発展に大きく寄与した歴史の道の一部を歩きましたが、道にはそれぞれの歴史が残されているのを改めて感じました。 ※その2は→こちら

 

 

 

 


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