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下総・臼井城 本佐倉城に次ぐ大規模城郭だったが残存遺構が少なく、残念!

2020-08-31 | 歴史

臼井城は千葉県佐倉市臼井にあります。
 今回の記事は、過日の東海古城研究会の特別見学会(2泊3日)で房総半島の古城と史跡を訪ねた時のものです。資料は(1)見学会資料と(2)現地資料【臼井城跡歴史散策】です。
 臼井城の歴史は古く、十二世紀には存在し四百数十年間佐倉地方の政治の中核だったとされます。
資料(2)によると臼井城は本佐倉城同様に支城(砦)群を配した総構構造で、南北約1600m、東西約950mの大規模城砦だったようです。
 下総では本佐倉城に次ぐ規模を誇っていましたが、徳川家康の関東移封によりこの地に封じられていた酒井家次が、慶長九年(1904)に上野高崎に転封となると廃城になりました。
 

臼井城 城砦群の周囲は干拓で埋められ都市化で住宅地となり、Ⅰ・Ⅱ郭が公園として残った
 円能遺跡付近が大手だったとされ、北側の台地を中心に城砦群が築かれていたとされます。台地は印旛沼の水面に囲まれていたと思われますが、今は干拓・水田化されて印旛沼の水面は遠ざかっていました。
 遺構は都市化により多くが消滅してしまいましたが、Ⅰ郭とⅡ郭が一部改変を受けながらも、公園化されて残されていました。資料(2)によると臼井宿内砦にも遺構が残っているそうですが、時間の関係で今回は見学が出来ませんでした。資料(2)の遺跡図を現在の地理院地図に落とし込んでみましたが大きな住宅団地がいくつも含まれているのがわかり、城砦群の規模の大きさを再確認しました。
 Ⅰ・Ⅱ郭・Ⅳ郭の「内郭」を取り巻くようにⅢ郭「外城」が帯状に広がっていたようです。さらにその外側には砦(支城)が配置されて守りを固めていました。


臼井城 Ⅰ郭とⅡ郭とⅣ郭(御屋敷)で中核が構成されていた
 臼井城の中核部(内郭)はⅠ郭・Ⅱ郭と御屋敷で構成され、Ⅰ郭が城ノ内で主郭、Ⅱ郭が城内で、土橋③で両郭が連絡されていました。一段下がった御屋敷を含めた範囲が城砦群の中心となっていました 資料(2)。


臼井城 Ⅰ郭から印旛沼を見る 水面は遠くにある。
 Ⅰ郭は印旛沼に突き出した台地の先端部にありました。今は印旛沼の水面まで約700mも離れていますが、往時の水面はもっと近かったのではないかと想像しました。往時の臼井城は水に浮かぶ城で、舟運にも好都合な立地だったのではないでしょうか。


臼井城 Ⅰ郭 北西部の残存土塁①の断面を見る
 臼井城は公園化に伴う改変で、遺構が少なくなっていますが、この土塁は端部が削られて、生々しい断面を見ることが出来ました。一種の破壊ですので、遺構の保存としては好ましくないのかも・・・


臼井城 Ⅰ郭北側の帯曲輪② 東から
 Ⅰ郭の北側には帯曲輪②が残されていました。往時は三方を帯曲輪が巡っていて、近くまで印旛沼の水面が来ていたのを想像しましたが、今は都市化で東と南は住宅が直下まで迫っていました。


臼井城 手前に土橋③と奥にⅡ郭 土橋遺構は公園化で埋設され手前の地下にある
 Ⅰ郭とⅡ郭は土塁③で連絡していました。付近に立つ土橋の案内板によると、公園化で土橋遺構は埋設したとありました。案内板の写真をよく見ると土橋は細く、2回の折れを伴っていました。土橋左右の堀の深さと幅を考えると、土橋はⅠ郭の厳重な守りを担っていたと想像しました。


臼井城 堀④ 樹木で見にくいが、広くて深い
 Ⅰ郭とⅡ郭の間の堀④は広くて深いものでした。僕の地元の愛知県では城郭の堀は広くて深いものが少ないので、関東地方の城郭の堀の広さと深さには驚きます。Ⅱ郭の周囲は幅広で深い堀で囲まれていたのが見て取れました。堀の深さと幅は土地の土質や岩石の状況によって築城技術が影響を受けたのではないかと思いました。

臼井城は大規模な城郭ですが、後世の改変によって遺構の残りが少ないのは少し残念でしたが、現地資料と見学会資料で興味深く見学することが出来良かったです。