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下平城 伊勢 その2 二つに分離した興味深い城郭遺構の理由を探る 虎口の石垣が見どころ

2024-05-09 | 歴史

下平(しもひら)城は三重県いなべ市北勢町下平にあります。その1では二つに分離した南側の曲輪群を主に見学しましたが、その2では北側の主郭部を見学するとともに二つに分離している理由を考えてみたいと思います。今回の参考資料も (1)「再発見 北伊勢国の城」伊藤徳也著2008 (2)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976  (3)今昔マップon the web などです。下平城その1は→こちら

下平城 田切川と貝野川に挟まれた台地上に築かれている
 下平城と向平城は同じ城主だったと伝わりますが、築城時期などは不明のようです。両城を比較すると向平城は低い位置に在り、平場の面積も大きくとれそうですので、城主の居館は向平城に在り下平城は特定の役割のために築かれた城郭だったとも考えられそうですね。

下平城 明治の地図を今昔マップon the webで見ると道aとbがあるがCはない
 道は時代によって変化し、災害で崩れたり車の時代になって新たに敷設されたりして、往時の築城目的が読み取れない場合もあると思われます。下平城の場合は、車の道Cが敷設されて道aと道cが使われなくなり現況はほぼ消滅状態でした。また道cの敷設工事で主郭部の東側の一部が削り取られていました。

下平城 主郭部 旧街道は道aとbと思われるが城道は?
 明治の地図にある道aとbは下平城の遺構と合わせて見ると、古くからあった道のように思えますが城道は道cの工事による改変もありよくわからない状態でした。

下平城 Ⅰ郭(主郭) 南辺の虎口A 南から   残存する石垣(石垣)が見どころ
 虎口Aの石垣は、かなり崩れた状態で付近に落石が散乱していました。南曲輪群の残存石垣から類推すると、ここにもかなり立派な石垣が在ったのではないかと想像しましたがどうでしょう。※なお裏込石のない石垣は石積と分類されるようですが、ここでは石垣としています。

下平城 Ⅰ郭東辺の虎口B 東下から 
 Ⅰ郭には2ヶ所の虎口が在ったようですが、虎口Bの東側は道路cの掘削によって失われたようで、こちら側の城道を探ることが難しい状態でした。

下平城 Ⅰ郭 虎口Bと内側の枡形状地形の石積跡 土塁②上から
 虎口Bを外側(東側)から見ると、前の写真のように土造りの虎口に見えましたが、内部の二度折れる枡形地形の通路には残石が見られました。

下平城 Ⅰ郭 南東部の土坑➂は井戸か 奥に土塁①
 Ⅰ郭内の土坑➂の近くには写真のように石が見られました。土坑は井戸跡や石で囲んだ窪みで火を焚いた跡、倒木の根こそぎ跡などが考えられますが、付近の石との関連なども含めて、ハッキリしませんでした。

下平城 Ⅰ郭東辺土塁② 南から
 Ⅰ郭は四周を土塁で囲んだ曲輪だった可能性がありそうで、東辺土塁は特に高さと厚みがありました。東側を通る道aを意識していたのかもしれないと思いました。

下平城 Ⅸ郭東側の堀切④ 南から
 Ⅸ郭の東側は道Cの工事で削られたようで、往時の姿は失われていましたが、堀切④はⅨ郭と東尾根を断ち切る堀切だったと思われます。Ⅸ郭には土塁が見当たりませんでした。

下平城 土橋⑤ 奥にⅡ郭 北西から
 下平城は主郭へ至る城道のルートが不明確でしたが、Ⅱ郭から土橋⑤を渡り虎口AからⅠ郭へ入った可能性も考えられそうでした。Ⅱ郭へは東端部の土橋⑩でⅢ郭から入ったとも考えられそうでした。なおⅢ郭の東辺は道Cで現在削られていますが、往時は土塁が在ったかもしれないと想像しました。
下平城 堀切⑥ 西から 奥に土橋⑩
 Ⅱ郭とⅢ郭の間に浅い堀切があり、その他の堀切・土塁と併せて、西側を通る道aに対しての厳重な主郭の守りを形作っていたのではないかと想像しましたがⅡ郭、Ⅲ郭、堀切⑥は東端部を道Cで削り取られているようですので一つの推論です。

下平城 折れを伴う土塁⑧ 南から 浅い溝地形を伴っている
 土塁⑧も東端部が道Cで削られていました。この土塁も道aに対しての備えのように見えました。

下平城 主郭部南西部の土塁⑨ 北上から 左に傾斜のある平場⑪
 平場⑪は地山に沿った傾斜の平場で、ほぼ自然地形のようにも見えました。写真の土塁左側の溝状地形は、城道だった可能性もありそうでした。

下平城が主郭部と南部曲輪群の二つに分かれて築かれている理由は、見学結果に推論を交えて考えると道aと道bの通行を監視・規制する役割だった為と想定できるのではないかと思いました。車の道に削られて遺構の改変がありましたが、城郭が築かれた役割を想像しながら、楽しく見学出来て良かったです。


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