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信濃・福与城 天竜川の河岸段丘上に築かれた土の城、スケールの大きな城郭見学が楽しめる

2020-01-07 | 歴史

福与城は長野県上伊那郡箕輪町福与にあります。城は天竜川左岸の台地に築かれています。北側は鎌倉沢、南側は判の木川が台地を削り取り西側は天竜川に削られた崖で三方を自然の要害で守られていました。
 武田氏の南進の時には籠城戦で武田軍と戦いましたがついには人質を出して和議(降伏?)を結んだと伝わります。武田軍は接収した福与城を焼き払い、城主だった藤沢氏は流浪したと伝わります。藤沢氏は後に箕輪に戻り天竜川対岸に田中城を築いて入ったが城が完成される前に徳川勢に攻められて落城、自刃したとされます。
※「信濃の山城と館 5」宮坂武男著を資料とし、現地案内板を参考にしています。
 

福与城 天竜川左岸の河岸段丘上に約400m×400mの大きなスケールの城
 城域北側には鎌倉沢が、南側は判の木川が天竜川に流れ下って台地を削り、城地は南北とも急角度の崖が切り立っていました。
台地には自然地形の谷を加工したと見える大きな堀が2条築かれ、城地の台地を三つに分割しています。


福与城 城地を藤倉沢を挟んだ北側から見る。沢に削られた段丘崖上にあることがわかる
 主郭と北城の北辺は崖が急で転落の危険があるために手すりが設けられていました。曲輪側から崖をのぞき込むと、ここからは絶対に敵は登ってこないと実感できました。
 段丘崖を巧みに利用して築城されている福与城は東側の搦手口方面に弱点があったように思いますが、現地で見ると搦手にはかなり削り取られているものの土塁が築かれていたように見えましたが、妄想かもしれません。
 搦手口から見ると主郭までにはいくつもの曲輪と大きな堀がありますので、東側の構としては十分な防御態勢だったのかもしれませんね。


福与城 現地案内板の縄張図に資料から加筆 駐車場、トイレが設置されて見学環境は良好  
 福与城は見学者駐車場が完備し、トイレも設置されていますのでゆっくり見学が出来ました。城域がとても広いのでこれらの設備はとてもありがたいと思いました。
 

福与城 駐車場が付近から北方向を見ると幾重にも重なって曲輪が見えてワクワク!
 駐車場も曲輪に一部ですが、見渡す限り曲輪という「豪華な」景色でした。城址は広いので全部見るのにはかなりの時間がかかりましたが、見どころも多くついつい早足になっていました。
 曲輪の跡地は耕作地として今も使われていますので、細かな遺構は失われていると思われますが、スケールの大きな城の遺構はしっかり確認出来ました。


福与城 主郭南側の大きな堀A 自然地形をを加工して巨大な堀としている
 
写真右手に南城、左手に主郭が見えています。堀の一部は後世の道のために埋められていますが台地を深く掘り切って山下まで続いていました。
 主郭の南東隅は稲荷山と呼ばれる高台になっていて稲荷社が祀られていました。往時には櫓台があっても良い場所でした。


福与城 主郭から堀B越しに北城を見る。 堀Bはしんたく洞となって山下まで掘り切られている
 堀Bは自然地形のしんたく洞を加工してスケールの大きな堀が築かれていました。北城は城地の北西端にあたり箕輪南小学校方面からの道が付いていました。道の途中には墓地が点在していましたので、墓参の道として今も使われているかもしれません。


福与城 しんたく洞 堀Bの西下に続く自然地形の谷を加工  農道部分は埋められているが堀は山下まで続く
 福与城の西側の法面には後世の農道が造られているため、山下に向かう堀切の途中の道路部分は埋め立てられていました。
資料によると縄張図の二の郭の西下の農道が通るあたりに大手口の地名が残っているようですが、付近を見回してもそれらしい地形が見つかりませんでした。福与城の搦手口はわかりやすかったのですが、残念ながら大手口や大手道はよくわかりませんでした。写真は堀Bの下部で堀を挟んで左手上に北城、右手上に二の郭が見えています。


福与城 搦手口 新設道路から農道が駐車場に通じている
 搦手口付近には自然地形ではない地形が見られましたが、後世のものと思われるものもあり、明確な遺構を見ることは困難でした。農道入口付近には風化した土塁状の地形や堀跡かもしれない溝や旧道の切通などがありました。

福与城はどの曲輪にも土塁を見ることがありませんでした。もともとなかったのか、耕作地化によって失われのか?疑問が残りました。

スケールが大きな福与城は多数の曲輪と大きな堀など見どころが多く、土の城の見学が堪能できて、大満足でした。

 

 

 


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