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釜屋大洞城 美濃 新技術で新発見の山城を訪ねる。良好な遺構が未発見だったことに驚く

2020-11-29 | 歴史

釜屋大洞城は岐阜県恵那市山岡町釜屋にあります。
 東海古城研究会の会員対象のメール情報で中世城郭研究会発行の「中世城郭研究」第34号の中に高田 徹さんの研究ノート「岐阜県恵那市山岡町釜屋所在の新発見城郭について」が掲載されていることを知りました。
早速「中世城郭研究」第34号を入手し「ひなたGIS」のWebSITE活用で岐阜県CS立体図を用いて新発見した手法などを知ることができました。「ひなたGIS」やCS立体図、高田 徹さんの縄張り図、解説等については「中世城郭研究」第34号をご覧いただくとして、新発見の山城を紹介したいと思います。
 研究ノートの中では仮称釜屋大洞城となっていますが、以下は釜屋大洞城として記述します。
    ※仮称釜屋大洞城→釜屋大洞城 に改訂2022/11/14


釜屋大洞城 付近には織田信長が明知城の後詰に陣を構えたと伝わる諏訪ヶ根砦などがある
 武田勝頼が明智城を攻め、開城させて勢力下においたときに織田信長が後詰めの陣を構えたと伝わる諏訪ヶ根砦の北 約1
kmの位置に釜屋大洞城は所在します。研究ノートによれば開城後、山岡周辺は武田の支配下に置かれ、この時釜屋大洞城が築かれたと考えられるとしています。

CS立体図の技術的なことは関連のWEBSITEで確認していただくとして、パソコンの画面で上左のような立体画像を見ることができました。立体図と現地確認で遺構の概略図を描いてみたのが上右の図
2です。
 最近では赤色立体地図が登場して同様の立体図が手に入るようになって来たようですが、入手には費用がかかるようなので、趣味の世界では無料で利用できるCS立体図はありがたいと思います。

                               
                               釜屋大洞城 概略図 国土地理院地図をカシミール3Dで加工・加筆
上図の黒点線は現地で確認できる道ですが、近年の山道も含まれていると思われますので、すべてが往時の城道ではなさそうです。黄点線は立体図で何となく道がありそうに見え、現地で見て道があってもおかしくない場所です。


釜屋大洞城 土塁①と横堀② 南に対する備えの南端部と思われる  東から
 釜屋大洞城は南に対しての備えが厳重になっている様に思いますが土塁①と横堀がその最前線の備えだったのではないでしょうか。横堀を掘った土を掻き揚げて土塁①を築いたように見えました。土塁①の西端部③には土壇地形がありました


釜屋大洞城 堀切⑤でⅠ郭の切岸の角度と高さを稼いでいるように見える
 分厚い土塁④は堀切⑤の土を掻き揚げて築かれているように見え、堀切⑤によってⅠ郭南辺の切岸の高さが高く角度も急になっている様にみえました。堀切⑤両端の東西は竪堀⑤-1、⑤-2となって切れ落ちていて南からの敵の侵入への備えとなっているようです。


釜屋大洞城 竪堀⑤-2  上から     明確な遺構が残る
 堀切⑤の東側は竪堀⑤-2となって切れ落ち、明確な遺構として残っていました。西側の竪堀⑤-1の下端部近くを道が通ってていますが、近年の山道かもしれません。


釜屋大洞城 虎口⑥ 虎口受けの小さな平場から2度折れてⅠ郭へ登る
 釜屋大洞城の虎口の中では最も虎口らしいのが虎口⑥でした。虎口受けの平場へ至る道は明確ではありませんが、釜屋大洞城が南に向いて防御ラインが堅固になっているとすれば、北からの城道があったのではないかと想像しました。黄点線の⑪郭あたりからの道があったかもしれませんね。
 

釜屋大洞城 Ⅰ郭の東西に一段下がって櫓台⑦と⑧が築かれている ⑧南辺下には竪堀がある
 Ⅰ郭の東側に⑦、西側に⑧の櫓台がありました。南側に土塁、横堀、土塁、堀切、竪堀と防衛ラインを敷いた上にⅠ郭の左右には櫓台を備え、南からの進入を断固阻止する構えに見えました。
 櫓台⑦は少し崩れたように見えましたが⑧は明確な遺構が残っていました。⑧の南辺には竪堀もあり南に対する厳重な備えを、こんなところにも見ることができました。


釜屋大洞城 北端の⑭郭 北から 上奥に⑫、⑬
 釜屋大洞城の城域北端と思われる⑭郭は踊り場のような場所となっていましたが、⑫、⑬曲輪との関連がハッキリわからない場所でした。ここよりも北側には城郭遺構はなさそうでした。ヒョットすると北に向かう城道があったのかもしれないと思いましたが、踏跡などは確認できませんでした。


釜屋大洞城 北西尾根の平場⑮ 二段の地形で北に向かう山道が東下を通っている
 北西部の尾根上には⑮郭がありました。曲輪の性格はよくわかりませんでしたが、北に延びる山道が城道だったとすれば北からの進入に対する抑えだったということでしょうか。⑮郭の東側の道の直下に水場跡のような地形がありましたので、水場に関連した曲輪だった可能性があるのかもしれません。ただし水場地形には水は見えませんでした。

高田 徹さんの研究ノートに導かれて、新発見の釜屋大洞城の見学ができました。こんなに立派な遺構の残る山城が今まで未発見だったことに驚きながら、大満足の見学が出来ました。
 ※駐車は道路余地を拡幅した駐車スペースが随所にあり、標識も立っています。