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三河・北野城 所在不明の城館とされていた松平信定の城 発見!

2019-09-30 | 歴史

北野城は岡崎市北野町にあります。北野砦、北野古屋敷とも呼ばれます。 
 以前は城主の伝承は残るが所在不明の城とされていましたが東海古城研究会の機関誌「城」第214号(2014年)で、浅井 敏さんが 「岡崎・北野城を捜して」の投稿(以下論文)で北野城の現地調査結果を発表され、その所在を推定されました。

今回は、「城」第214号を片手に北野城をおとずれました。


北野城と周辺 古くは矢作川の乱流が流れた段丘崖の先端部に城を構えた
 北野の地は古くから大河・矢作川の重要な渡河地点で、矢作川の乱流で削られた碧海台地の上にありました。論文によれば、北野城の初期は戸田宗光の可能性が考えられるとのことですが、最終的には北≒2.5kmにある上野城の支城として松平信定が攻撃、防禦の拠点としたとされます。
 昭和23年の空中写真によれば、当時の北野城の輪郭は東、南、西がU字型(A)に残されていたようです。
北側は明確な輪郭がありませんが点線Bの可能性が論文で指摘されています。


北野城 東側に残る堀跡を南から 奥は密集した竹林だが堀は北端近くまで残る
 堀は深く幅も広いが北部は竹が切られていないので、進入が困難な状態でしたが、竹林の中に堀が残っているのを確認出来ました。


北野城 城趾南東角の切岸を南から 台地上に土塁は見当たらない
 東側の堀は南の矢作川の乱流した面まで続いています。城址南面は段丘崖が切岸の機能を持っていたように見えました。堀の深さは人物と対比


北野城 南側の段丘崖 今でも≒4mある
 北野城の南側は今では田地となっています。城址面からの高低差は今でも≒4mありました。城址面に土塁は残りませんが、往時は土塁があって、さらに切岸の高低差が大きかったのではないかと想像しました。


北野城 城址西部の報恩寺境内と道路面の高低差は堀の名残か?
 空中写真を見ると報恩寺の西側は谷地形で細長く田地になっています。論文の明治の地籍図でも、この辺りから細長い地形が分岐して北へ延びていますので、論文では堀跡と推定しています。空中写真でも細長い線状に見えています。
 空中写真では北野天満宮の参道もこの辺りから始まっているのが判ります。


北野城 城址北辺はこの辺り?以前は焼場と墓地が有った。今は墓地が残る。  東から
 北野城の北側には北野廃寺阯があります。論文によると北野城との間に焼場と墓地があったそうですが、今は墓地だけがありました。論文ではここに北縁の堀が有ってもおかしくないという推定がされています。北野城が方形城館だったとすれば堀を想定できる場所だと思いました。


北野廃寺阯 調査で古代の大寺院が有ったのが確認された。
 北野城の北に隣接して北野廃寺阯がありました。北野廃寺の創建時期は飛鳥時代前期、廃絶は平安時代中期と推定され、三河最古の古代寺院の1つと考えられています。昭和39年と同52年に行われた調査により、塔や金堂・講堂の基壇とそれらを結ぶ回廊の一部、そして寺地を画する土塁が確認され、それらの配置から、東西126.5m、南北146mの寺地の中に堂塔が直線上に並ぶ四天王寺式の伽藍配置であったことがわかりました。
 当時の矢作川には堤防はなく、乱流しており島状の微高地が多数あったと思われ、南東の渡河方向には大門という地名が残されており北野廃寺の大門があったので付いた地名だという伝承が残されます。
 矢作川を船で渡る渡河地点だったとすれば、船着き場もあったことでしょうから、空中写真の報恩寺の西側の谷地形辺りに船着き場があったかも知れないと想像してみましたが、どうでしょう。


参考図 現在の地図に北野城を書き込んでみました
 大門は現在では矢作川を越した対岸になっています。三菱自動車工業の進出によりかつての田地は工場に変わりました。
※60年ほど前には、矢作川を渡るための小舟が大門側の岸につないである光景が見ることがありました。

北野城を訪れる際には是非北野廃寺阯も見学しましょう。北野廃寺阯がメインになるかもしれません。