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一夜の城 信濃 高遠城攻めの織田信忠の本陣 一夜にして築かれたと伝承される陣城 

2024-05-15 | 歴史

一夜の城(いちやのじょう)は長野県伊那市富県桜井にあります。武田氏討伐のため織田信忠を総大将として高遠城を攻撃する際の陣城として築かれたとされます。高遠城は織田軍の攻撃により一日で落城したとされますので、一夜の城は作るのも短時間だった様ですが、使われたのも短時間だったと思われます。今回の参考資料は(1)「信濃の山城と館 5」宮坂武男著 2013 (2)「伊那の古城」篠田徳登著1971 などです。

一夜の城 高遠城は東6kmにある 高遠城攻めの本陣として築かれた
 短期間の利用を目的とし、圧倒的な戦力差があったので、守りの備えは強力ではなかった様で、立地もほぼ平坦な場所でした。城は信忠の陣所とし設けられ、周囲に将兵の駐屯地が在ったのではないでしょうか。

一夜の城 土塁囲みの平場のシンプルな陣城
 資料⑵によると、築城には付近の農民数千人が駆り出され短期間で完成したとされ、一辺が約50mの方形の曲輪で土塁の基底部は三間(5.4m)高さ二間(3.6m)であったとされます。

一夜の城 土塁東辺の中央部に虎口が設けられている
 明治時代にここに貝沼学校が置かれたとされ、その際に虎口の改変が多少あったかもしれませんが、往時の雰囲気は残っていました。

一夜の城 虎口北側 土塁端面には石垣が積まれている

一夜の城 虎口南側 土塁端面には石垣が積まれている
 虎口の両側には石垣が積まれていました。往時のものか、後世に積まれたものかは確認できませんでしたが、往時の石垣と見てもおかしくないかもしれませんね。

一夜の城 曲輪内部 虎口から見る
 曲輪内は平坦地でした。資料⑵によると、曲輪内は貝沼学校として明治10年~27年の間に利用され、その後 水田として利用される予定だったとされます。

一夜の城 東辺土塁① 南東角 南東から
 四周を巡る土塁は、多くの部分が削られていましたが、虎口のある東辺はかなり残っていました。

一夜の城 土塁②の北東角 北東から
東辺土塁②の北東角には天神様が祀られていた為にほぼ原形を保っているようでした。

一夜の城 北辺土塁➂ 東から 途中から削られている
 北辺土塁➂は北東隅の部分が少し残っていましたが、農地に利用の為、多くの部分が削り取られ低く、細くなっていました。

一夜の城 北辺土塁③ 西から 奥に東辺土塁と虎口が見える
 北辺土塁は、ほとんどが削られていました。残っている土塁は、田の畦のようですね。写真左側の一段下がった道路との間は畑地で、かつて土塁が在った部分が削り取られたように見えました。

一夜の城 南辺土塁の曲がり⑤ 西から
 南辺土塁の一部⑤が曲がっているように見えました。後世の利用による改変の可能性が高そうでした。南辺の土塁の残りは「やや良」ですね。

一夜の城 南辺土塁⑥ 南西から
 南辺土塁⑥の南側の平面は曲輪内部よりも少し低いようでした。周囲を見ると築城時に掘り下げてのではなくもともとの地形によるものの様でした。

一夜の城は、織田信忠の高遠城攻めと、城を守る将兵の物語が有名ですが、一夜の城を見ると勝利を確信した織田軍のシンプルな陣城だったと思われました。陣城としての目的を想定しながら楽しく見学出来て良かったです。


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