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三河・武節古城 築城が南北朝期とも伝わる見どころが豊富な山城。武節城との関係は?

2021-02-26 | 歴史

武節古城は愛知県豊田市桑原町上鎌井にあります。黒田川を挟んだ対岸には武節城があります。築城は南北朝期に遡るとされ、戦国期に築かれたとされる武節城よりも古いようです。武節古城にはその後、尾張から山田氏が移住し城主となったとされます。武節古城と武節城は川を挟んだ至近距離にありますが、両城の関連は明確ではないようです。    
今回の資料は (1)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994 と (2)「史跡散策 愛知の城」山田柾之著1993 です。


武節古城 武節は中馬街道、名倉地区などの交通の要所
 資料(2)によると、名倉地区を支配した菜倉氏が武節古城を築いた最初の城主の可能性が高いようで、戦国期になると田峯菅沼氏が武節城を築いたと伝わります。その時点で武節古城はどうなったのかは明らかではないようです。武節地区は東西に通じる中馬街道や名倉地区に通じる南北の道が交わる交通の要所で、武田・織田・徳川が奪い合う地点となりました。       菜倉氏関連記事は→こちら
※資料(2)では、今見る武節古城が機能した時期をそこまで遡らせることには慎重な見方となっていました。


武節古城 黒田川に突き出した尾根を大堀切①で断ち切り、土塁③で堅固に守る
 大堀切①は後世の山畑への改変でbを削って埋め立てられたようで、往時はアのように深くて幅広の堀切が在ったと思われます。見学路は車で熊野神社へ登る道がありますが、往時はaの谷を登る道が大手道ではなかったかと思いました。


武節古城 大堀切の竪堀部分② 今は埋め立てられて堀底は不明 見どころです
 いまは大堀切は埋め立てられて、往時の堀底は想像するしかありません。②の反対側は竪堀地形が有りませんでしたが、谷へ落ちる斜面が急角度で竪堀の必要がなかったのではないかと想像しました。


武節古城 見学路の道Aから大堀切西側面を見る  奥上に土塁③の北側法面が見える
 見学路Aは大堀切①へ登る道になっていました。往時には土塁の北側の法面の高低差は随分あったと思われますが、今は2mほどでした。


武節古城 道Bと腰曲輪⑥の面はほぼ同じ高さ 堀底はこの辺りだったか
 見学路Aは最近の道ですが、道Bは竪堀②で分断されたような道でした。竪堀の対岸には腰郭⑥が見え、曲輪面が道Bとほぼ同じ高さでした。ヒョットするとこの辺りが堀底だったのではないかと想像しましたがどうでしょう。


武節古城 Ⅰ郭   南から   奥に北辺の土塁③
 Ⅰ郭の土塁は北辺のみでした。その他の三辺は切岸が防御の要となっていたようです。


武節古城 帯曲輪⑦ 西から Ⅰ郭の南側には三段の帯曲輪が設けられている    見どころです
 三段の帯曲輪の中で、⑦が最大の帯曲輪で、見どころでした。季節にも依るでしょうが、冬に訪れると明瞭な遺構が堪能できますね。


武節古城 腰曲輪⑥ 北から 左手切岸の上にⅠ郭
 Ⅰ郭の西辺にも三段の腰曲輪が設けられていました。この曲輪の北端部に大堀切から切れ落ちる竪堀がありますが、道Bとの関連が気にかかります。


武節古城 帯曲輪Ⅱと平場④の関連と機能が興味深い
 Ⅰ郭の東隅の曲輪ⅡはⅠ郭東辺に伸びていて、平場④の南上に出ていました。資料(2)によるとⅡ郭の北端部は平場④の上部西側まで回り込んで、その先にⅠ郭の虎口があったのではないかと推測していました。④付近は一部崩落が見られましたので、推測通りだったかも知れませんね。


武節古城 平場⑤ 墓石がある  写真奥上にⅡ郭  その上にⅠ郭が見える
 平場⑤は、往時は腰曲輪だったのかもわかりませんが、今見ると墓石が有り、墓地となっていた時期があったようです。⑤からは山下に下る山道が残っていましたが、城道だったものが墓参の道に利用されたのかもわかりません。ヒョットすると大手道はa方面ではなくて、⑤→Ⅱ郭→Ⅱ郭帯曲輪→④ →Ⅰ郭 の可能性も有りだと思いました。

武節古城はコンパクトながら、遺構の残りがよく、想像力を働かせながらの山城見学の楽しさを堪能でき、大満足でした。