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三河 五葉城 その2 諸国古城之図と資料を参照ながら興味深い遺構を見学する

2022-04-30 | 歴史

五葉城は愛知県新城市富岡にあります。その1 では、広島市中央図書館所蔵の浅野文庫「諸国古城之図 三河八名 五葉」やその他の資料を参照しながら「堀切部」と名付けられた遺構を見学しました。その2では、五葉城の本丸部分を見学したいと思います。五葉城の築かれた山塊の南側と西側は近年大規模な採石が行われ大きく削り取られて形を変え、山上の城域付近は林道の敷設が行われて一部の城郭遺構が失われていますが、絵図に描かれた「三河八名 五葉」を参照すると、現地で往時の姿を想像することがかなり出来ることがわかりました。
 参考資料は (1)「城」第149号 東海古城研究会1993    (2)「愛知県中世城館跡調査報告3」愛知県教育委員会1997 と現地案内板などです。 ※「諸国古城之図  三河八名 五葉」は その1 でご覧ください。


五葉城 旧地図と起伏図の重ね合わせで往時の山容を復元する
 「今昔マップ on the web」を利用して起伏図と重ね合わせをすることで、明治23年頃の五葉城と周囲の地形を知ることができました。この頃は採石も行われておらず、林道も無く、北側山下の五葉湖もまだありませんね。往時の姿も、ほぼこのようであったと想像しましたがどうでしょう。図1の右下隅にある「中山峠」は遠州の三ヶ日方面に通じる峠道として重要な場所でした。


五葉城 図2 本丸に立つ案内板の図      設置:五葉城を整備する会
 五葉城の本丸には「五葉城を整備する会」によって設置された案内板がありました。「五葉城を整備する会」が五葉城の整備を行った経緯や活動内容は東海古城研究会の機関誌「城」第224号に投稿され詳しく紹介されていました。


五葉城 「水堀?」は絵図に描かれた部分  本丸は絵図では「ゴヤウ本丸」となっている
 今は林道となっている部分付近に絵図では堀が描かれ、もと水堀だったが、今は水はない、と書き込まれた部分です。本丸は五葉城の中核部分だったと思われ大手道も「堀切部」の備えを通って本丸に入るように描かれ、ここが「本丸」と表記されていました。


五葉城 本丸  南から 直進する道Bはハイク道 案内板と展望パネルが設けられている
 堀切部から本丸にかけては林道の敷設によって遺構が失われていました。今は二の曲輪を通って本丸に直進する道Bになっていますが、往時は虎口③を折れて進む道Aだったようです。道Aは少し不明瞭ですが、資料(2)に基づいて確認が出来ました。整備によって本丸からの展望が開け、北方の展望が素晴らしかったです。


五葉城 本丸 虎口③ 東から  見どころです!
 本丸へ入る虎口③の道Aはブッシュに覆われていましたが、かき分けながら進むと確認が出来ました。資料がないと見落としてしまうところでした。
 

五葉城 本丸土塁① 西の道Bから    右に虎口③   
 本丸の土塁①は風化もあってか約50cmほどの低いものでしたが、長い距離が残っていました。「土塁」の表示版が立っていました。手前の表示版はハイカー向けの表示版のようです。


五葉城 本丸   土塁④ 北から
 写真では草に隠れてよく見えませんが、土塁①と同様の土塁が設けられていました。表示版もありました。


五葉城 本丸南西下の堀⑥ 西から 左に本丸の切岸 表示版が立つ  見どころです!
 本丸の南西下には本格的な横堀⑥と土塁⑦が明確に残っていて見どころでした。堀⑥は写真奥の先端部で南に折れていました。


五葉城 堀⑥と土塁⑦の先端部 南東から  土塁先端部の断面が見える
 堀切⑥の先端部は土塁⑦先端の開口部で南に曲がっていました。堀⑥は南に向けて傾斜があるので、水抜きの開口部だったのではないかと想像しましたがどうでしょう。このあたりの遺構は「見ごたえあり!」でした。


五葉城 堀⑧ 南から 左に土塁⑨ 右に本丸の切岸  表示版が立つ
 本丸の北西部にも南西部と同様の堀⑧と土塁⑨が設けられていました。こちらは周囲の樹木が少ないので日当たりが良く、雑草が伸びていますね。


五葉城 土塁と堀⑩ 東から
 図3で土塁と堀とされている遺構⑩ですが、防御施設としては小規模なので、ヒョットすると水場だったのではないかと思いましたが、水はみられませんでした。


五葉城 本丸南東下の段差のある平場②   北東から   左に竪堀か
 本丸の南東下には腰曲輪状の段差のある平場が設けられていました。写真の左部分は資料(2)で竪堀が描かれていますが図3では表現されていませんでした。崩落地形とも言えそうな地形でした。


五葉城 虎口⑤ 北から  開口部左に土塁、右に一段高く二の曲輪  
 虎口とみえる⑤ですが資料(2)では虎口の位置は道A に近い場所だったとされます。虎口⑤から道A の間は雑木などが繁茂していて地形の確認が難しい場所でした。

今回は諸国古城之図で本丸と書き込まれた五葉城の中核部分の遺構を見学しました。 絵図では図2にも描かれている出丸が描かれ、本丸よりも三間低い、となっていました。現地で見ると明確な遺構はなさそうでしたが、「五葉城を整備する会」の整備活動によって北側の樹木が伐採され、絵図で 宇利方面が能く見える、とされている状況が再現され確認できました。
 ※その3 では高城砦を見学したいと思います。