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中金古城 三河 南北朝期の足助氏の城郭遺構か、三宅氏の中金城の詰城か

2023-11-28 | 歴史

中金古城は豊田市中金町にあります。飯田街道を見下ろす山上にあり、南下の尾根上の中金城との関連も考えられるようです。山上の中金古城の伝承は地元にもなく、その位置から古い時代(南北朝期)の足助氏に関連した城郭遺構の可能性と南側尾根に築かれている中金城の詰城という想定もあるようです。
  今回の参考資料は (1)「豊田の中世城館」愛知中世城郭研究会1992  (2)「愛知県中世城館跡調査報告Ⅱ」愛知県教育委員会1994 などです。なお資料⑵では中金城を中金城A、 中金古城を中金城Bとし資料(1)では中金古城を(仮称)としています。※中金城はこちら

中金古城 南北朝期の足助氏に属する城郭か、中金城の詰城か
 中金城は街道AとBの結節点に築かれ街道を扼する城郭とされますが、中金古城は古い形式の山城で南北朝期の足助氏に属するとされる見方と三宅氏の中金城の詰城と想定する見方があるようです。

中金古城 中金城の尾根筋を登ると城域に達する
 足助氏に属する古い城郭とすれば足助氏の支配地域の西端部にあたり、西側の守りのために設けられた城郭と考えられそうです。三宅氏の詰城とすれば、足助古城を再利用したとも考えられますね。

中金古城 中金城からの尾根道a
 中金城から北側の尾根筋を登りましたが、途中に廃墓地bがあり道aが一部残っていました。山上の中金古城付近では道が明確ではありませんでした。

中金古城 尾根道途中の廃墓地?
 道a途中の尾根を削った平場に墓石が倒れていました。陰刻文字の様子からはそれほど古い墓石ではなさそうでしたので、城郭遺構に関連するものではないと思いました。墓としては廃されたもののようです。

中金古城 尾根上の西側に二条の堀切  Ⅰ郭東側に備えは無いか
 尾根上には二条の浅い堀切が在りました。Ⅰ郭が主郭と見えましたが、Ⅰ郭の東側には防御の備えはなさそうでした。土壇地形④は自然地形のようでした。

中金古城 堀切①の西側尾根 自然地形の様だ 西から
 堀切①の西側の尾根は自然地形のように見え、城郭遺構はなさそうでした。

中金古城 堀切① 北から
 堀切①は西側の尾根断ち切っています。風化があるにしても、元々浅い堀切だったように見えました。

中金古城 小平場② 東から
 小平場②は道aを登りきった場所でしたが城郭遺構かどうか判然としませんでした。

中金古城 堀切③ 北から 左上に土壇④
 堀切③は土壇④の西側の切岸を削り出すために掘られたように見えましたが、現況はかなり埋まって、浅くなっていました。

中金古城 土壇④ 西から 自然地形か
 土壇④は中金古城の最高所ですが自然地形のようで、資料でも削平が見られるⅠを城郭遺構の曲輪と見ているようでした。西側からの侵入への備えとしては二条の堀切とセットで自然地形の土壇を利用していたように見えましたがどうでしょう。

中金古城 土壇④南下を巻く細い平場⑥ 東から
 土壇④の南下に沿って細い平場が在りました。写真でも見えますが、右の土壇④下部の法面を削っているようですので犬走として加工したのかもしれません。

中金古城 Ⅰ郭西側尾根 奥にⅠ郭 西から
 Ⅰ郭と土壇④の間の尾根は自然地形で堀切等の遺構は見当たりませんでした。

中金古城 Ⅰ郭 削平された平場 岩の露出が見られる 西から
 Ⅰ郭は尾根の東部を削平した落葉が積もった平場でしたが土塁等の遺構は見当たりませんでした。

中金古城 Ⅰ郭南辺の切岸 東から
 Ⅰ郭の南辺は、やや曖昧ですが切岸の加工があったように見えました。

中金古城 尾根先端の大岩群 南から
 Ⅰ郭の東側には自然地形の大岩群が在り、中金古城の占地の根拠の一つだったかも知れないと想像しましたがどうでしょう。

中金古城は西側への備えはありましたが、東側への備えはかろうじて自然地形の大岩群のみで、西に向いた城郭だったと考えられるようでした。中金古城と中金城は一緒に見学出来て楽しめましたので良かったです。