城と歴史歩きを楽しむ

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三河・笠井島城 街道の結節点を押さえる奥三河の山城 捕獲檻に入った2頭の猪にびっくり!

2021-05-29 | 歴史

笠井島城は愛知県北設楽郡設楽町豊邦にあります。城主・来歴などは不詳ですが、笠井島を領した土豪の詰城だったと思われます。笠井嶋の地は山深い奥三河の街道の重要な結節点にあたり、戦国期には武田、松平、織田の境目の城の一つとしてせめぎあいの在った場所だったと考えられます。
 今回の資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告3」愛知県教育委員会1997と (2)歴史散策「愛知の城」山田柾之著1993 です。


笠井島城 当貝津川突き出した尾根の先端に所在 各方面への道は一部失われた
 明治以降の車社会となって往時の歩く道の一部は失われ、笠井嶋の集落を中心に急斜面の谷を登る車の通行が出来るつづら折りの道に変わっている所もありました。
 作手から小田を通り笠井嶋へ下る道Aは完全に失われてしまいましたが、その他の道は改修または代替道路が敷設され、今も昔も往来に欠かせない道だったことを物語っているようです。
 ※小田城と道Aは→こちら


笠井島城 城址付近で見かけた猪捕獲檻に入った2頭のイノシシ 檻が壊れそうに暴れる
 訪れたのが冬だったので、猪が里の近くに出没する季節のためか城址近くに仕掛けられた猪捕獲用の檻に2頭の猪が入っていました。まだ入ったばかりだったのか元気が良くて人の姿を見て猛烈に暴れだし、今にも折りが壊れてしまうのではないかと恐怖心が湧き、急いで檻から離れました。猪は夜行性なので行動の痕跡は多く見られますが、日中の城巡りで見かけることは無いので驚きました。


笠井島城 当貝津川に突き出した尾根の先端部に所在する
 南西尾根以外は急峻な尾根地形なので南西尾根を堀切で断ち切って守りを固めていました。明治以降に掛けられた橋を渡り林道の余白に駐車して尾根筋に登りました。※駐車は自己責任です!
 尾根から見て奥の曲輪Ⅰ郭が主郭と思われ、①の堀切とⅡ郭の堀切②とあわせて二重の堀切で厳重に守られている印象でした。


笠井島城 南西尾根から堀切②越しにⅡ郭を見る
 堀切②は尾根を断ち切って両サイドが竪堀状に落ちていましたが尾根の中央部分は埋まったためか浅くなっていました。


笠井島城 堀切② 南東から  右手にⅡ郭
 堀切②の中央部の現況は浅くなっていました。確認はできませんでしたが往時はもっと深かったかもしれませんね。


笠井島城 Ⅱ郭から、手前の土壇越しにⅠ郭を見る 土壇の向こう側に堀切①
 Ⅱ郭の東北辺には削り残しのように見える土壇があり、その奥に堀切①、更に奥にⅠ郭が直線状にならんでいました。尾根を利用して最大限の防御態勢が考えられていたように思いました。


笠井島城 堀切① 南東から    写真右手上にⅠ郭
Ⅰ郭の堀切①は中央部に土橋のある堀切でした。写真で見てもわかるように木の枝などで埋まりつつあるようなので、往時の堀はもっと深かったのでしょう。


笠井島城 Ⅰ郭(主郭) 南東から
 Ⅰ郭(主郭)はシンプルな削平地でした。今は樹木で遮られて眺望はききませんが、樹木がなければ眼下に当貝津川と街道が広い範囲にわたって見下ろせたでしょうから、見張り台としての役割も果たしていたのかもしれません。居住性はなさそうですので笠井嶋の集落に居館があって、非常時に詰の城として使われたのではないかと想像しました。


笠井島城 土止めの石積? 
 遺構の一部に写真のような石積と見えるものが一ヶ所在りました。自然石ではなくて土止めの石積のよう見えましたがどうでしょう。

笠井嶋の地名は水に囲まれた「島」を連想しますが、この地域には粟嶋、湯嶋、塚嶋、竹嶋、中嶋などの集落がありますので『ある仲間内の勢力範囲また、その土地を表す「しま」』が元になっているのかもしれないと思いました。

笠井島城はコンパクトな村の城と思われますが、植林はされたものの遺構の残りはよく手軽に見学できる山城で、楽しめましたが檻の中で暴れる猪には肝を冷やしました。