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三河・孫根城 武田軍の三河侵攻で元亀二年に落城したが、初期の築城は意外に古い

2021-04-27 | 歴史

孫根城は愛知県豊田市平瀬町簗瀬にあります。資料によって住所表記が異なっているようですが、現地案内板は(旧)住所で下山村大字梶字横大となっています。案内板によれば初代城主は梶金平信勝とされますが、「梶」の集落が南西約600mにありますので、この地に住み着いた土豪が梶を名乗り、その城だったのではないでしょうか。初代の築城年は明確ではないようですが、七代城主信家が天文五年(1536)に足利の軍勢に攻め落とされたとありますので、七代×20年でおよそ1400年代初め頃の築城になるでしょうか。
 その後、本多氏が入り元亀二年(1571)武田軍の三河侵入で再び落城したと伝わります。
今回の資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994と (2)現地案内板です。 
 ※資料(1)の縄張り図の方位表示と解説文が90度ずれているようでした。


孫根城 図1  大沼梶からの旧道AがBとCに分岐していた。西側の道Fは後世に開設された車の道
 旧道Bは現在の千歳橋付近でDとEに分岐していました。Bの道は明瞭でしたので現在の千歳橋までたどることが出来ました。道Fが出来るまでは使われていた大切な道だったのではないでしょうか。Cの道はひどく荒れていたので、進入していません。


孫根城 図2 巴川と梶川に挟まれた尾根上に築かれ、尾根を堀切で断ち切っている
 図1の北側に伸びる尾根のピークはⅠ郭と同じくらいの標高で、Ⅰ郭から北の監視は難しそうですので見張り場ぐらいは在ったかもしれないと思い見学しましたが、遺構らしきものは見当たりませんでした。


孫根城 旧道BとCの分岐点
 旧道Cは荒れていました。間違ってCへ進まないように、Bへの表示板がありました。


孫根城 図2の堀切① 東から   右上にⅥ郭
 南端のⅦ郭の南側には明確な堀切はなく不明確な土塁と切岸が有りました。Ⅵ郭とⅦ郭の間には明確で規模の大きな堀切①がありました。


孫根城 Ⅴ郭とⅥ郭の間の堀切と折れのある土橋  南から 
 写真はⅥ郭北端部から写していますが右手にはⅥ郭北西隅の削り残しの土塁が見えています。折れのある土橋とセットでⅤ郭の虎口を守る翳(茀)の役割と思われ、南に対して厳重に備えていたことが窺われました。


孫根城 南尾根にはⅠ郭に至るまでに6つの曲輪が設けられている    写真はⅣ郭 左手にⅢ郭への城道
 Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ郭は西側の削り残しの土塁状の城道でつながっていました。各曲輪は尾根を削り出した削平地になっています。曲輪ごとの面積は不揃いで、防御性も乏しいように見え、尾根地形の制約の中で削平地を削り出したために段々地形の曲輪になったのではないかと思いました。


孫根城 段差のあるⅡ郭  南から  奥上にⅠ郭    小祠が祀られている
 Ⅱ郭は低い段差のある曲輪でした。Ⅰ郭との高低差は大きく、守りの要として切岸がしっかり削り出されていました。小祠は後世のものかもしれませんが、現役らしく祭事のゴミが散乱していました。
 Ⅱ郭からⅠ郭へは折れて登る城道でした。


孫根城 Ⅰ郭(主郭)には表示板が立つ 奥に低土塁      南から   
 Ⅰ郭北辺に短い低土塁が残っていました。北辺の防御のため往時はもっと長い土塁だったかもしれませんね。Ⅰ郭の周囲はそれ以外に土塁は見当たらず、犬走り地形が巡っていたように見えました。
 

孫根城 Ⅰ郭北側下の堀切③   南東から  左手にⅠ郭の切岸
 北東尾根の堀切③は二重になっていたようですが、風化で埋まったとしても、浅いものだったようにみえました。南に比べて北側からの侵入の危険度が低かったためでしょうか。高くて急な切岸が設けられていたので必要がなかったのでしょうか。


孫根城 小平場④ 上から
 北西方向の小尾根には小平場4がありました。今はすぐ下に道路が通っていますが、往時は梶川沿いまで法面が続いていたと思われます。

孫根城は10年ほど前、城巡りを始めたころに一度訪れていましたが、今回改めて見学すると、意外に遺構の残りがよく、構造も興味深い山城だったことに気付き、再度訪れてよかったです。