城と歴史歩きを楽しむ

専門的でも学術的でもなく、気楽に
山城中心に城巡りと歴史歩きを楽しみましょう!

駿河・駿府城 天正期と慶長期の天守台の発掘調査現場見学会 4年間の調査成果が凝縮

2020-02-26 | 歴史

駿府城は静岡県静岡市にあります。
 駿府城は、古くは今川氏の館があったとされ、その後徳川家康が浜松から駿府城を築いて移りました。豊臣秀吉の小田原征伐の後に秀吉の命で家康は江戸に移り、一旦この地を離れましたが大御所となり天下普請で巨大な駿府城を築き再びこの地に戻りました。
 今回の現地見学会では関東移封前の駿府城の遺構を天正期(豊臣方)の・・・、大御所時代を慶長期(大御所家康)の・・・と名付けて区別して説明がありました。
 発掘調査では今川時代の堀遺構と陶磁器などの出土品もあったそうですが、今川館と直接結びつく発見はなかったとされました。


駿府城 発掘情報館きゃっしる入口から入り、広大な発掘現場の隅々まで見学できた
 4年間の発掘成果が分かる! と銘打って開催された大規模な現場見学会でしたが、タイトルに負けない充実した内容で、見学者も多数詰めかけ予定回数になっかった臨時の説明も行われました。
 普段は現場を囲む塀に明けられた透明窓からのぞくことしかできない発掘現場も、今回は現地で間近に見ることが出来ました。


駿府城 慶長期の天守台石垣は現状よりも10m程高さのある巨大なものであった
 発掘担当者の分かりやすい解説があり、詰めかけた見学者は身を乗り出して聞いていました。今回の発掘では明治時代に軍の施設に供用される時に取り壊されて天守堀(内堀)に埋められた天守台の石垣が大量に掘り出されたので、天守台の石垣、堀底、堀の天守台対岸の二ノ丸の石垣などが発見され堀幅も確認されました。天守台の石垣は地表面まで壊されて下部が地下に埋もれていましたが、現状から10m余の高さまで積まれていたと説明があり、見上げるような天守台石垣とその上に立つ巨大な天守を想像しました。
 確認された慶長期の天守台は61m×68mの大きさで、日本最大の天守台と分かったと説明がありました。
さすが、大御所様の城ですね。


駿府城 天守堀(内堀)の堀底が確認され石垣基底部の構造が分かった
 明治期の埋立土と石を堀出したので堀底面が確認されました。写真の点線四角で囲った白線部分が堀底です。天守台の基底部はぐり石を突き固めた上に石垣を積んでいるそうで、胴木などはなかったようです。駿府城のある土地は、かつては安部川の氾濫域で礫混じりの土砂が堆積しているように見えますが、この上に巨大な石垣と天守が載っても大丈夫と見極める経験と技術は大したものだと感心しました。


駿府城 天守台下門と二ノ丸を結ぶ木橋の柱穴と木材
 内堀の底から柱穴が発見されました。かつて天守台下門と二ノ丸を結んでいた木橋がかかっていた場所で直径60㎝程の柱穴が9か所発見されました。柱穴の位置表示の鉄の棒がある場所です。柱の間隔は一間半になっていたと説明がありました。付近に橋の構造物だったらしい木材も堀出されていました。


駿府城 天正期の小天守台の説明を聞く 説明員が指し示す棒の先が小天守台の南東角  石垣は北面
 天正期の駿府城の築城は、松平家忠日記の天正十七年二月十一日に小天守の手伝い普請をしたと記述され、翌月十日普請が出来たとなっているので約1ヶ月でこの小天守が出来たことになるようです。そう思ってみると地元出身の家忠の痕跡がどこかにありそうな気がしてきました。
※日記の記述は小天守台のことで、天守建物はこの後も工事が続いたかもしれません。


駿府城 天正期小天守台 南面石垣と小天守台北東角 写真の①   石垣は南面
 今回の発掘調査で天正期の小天守台の石垣の南東角①部分が発見されたので、天正期の小天守台の大きさが確認できたと説明がありました。北面の石垣もそうでしたが野面積で積まれている石は丸い川原石が多いようですね。この小天守台は一辺が20mあるそうです。


駿府城 天正期の天守台石垣と裏込石 一部に明治以降の構造物が見られる   ※1 裏込めのぐり石の幅に注目
 天正期の天守台は慶長期の天守台と重なっている部分が多く築城時期による石垣構造の差が見比べられました。天正期の石垣は慶長期の石垣に比べて角度が緩やかだと説明がありました。
 ※ちなみに天正期の天守台の大きさは33m×37mだそうです。
この辺りには明治以降にコンクリートの建築物があったらしく、天正期と近・現代の建築物の共存も見られました。


 駿府城 慶長期の天守台 南西角 と天守堀(内堀)      ※2 裏込めのぐり石の幅に注目
 慶長期の石垣の角度は急ですが天正期の石垣と比べると裏込めのぐり石の幅がずいぶん違います。
慶長期の石垣のぐり石は10m近くの幅がありそうですが天正期の場合は2mぐらいに見えました。
 石垣の高さなどの要素も関係してくると思いますが、思ったよりもはるかに幅の広い裏込め石が必要なのだと知りました。

大規模な発掘調査の現場を見ることができ、新幹線に乗って出かけた甲斐があった大満足の現場見学会でした。
一連の発掘調査を受けて、天正期の駿府城の築城主体がだれだったのか、秀吉と家康の力関係はどう働いたのか、石垣の形態で築城主体が判断できるのかなどの議論が沸き起こっています。議論はどんな決着を見せるのか、決着はつかないのか・・・興味深いです。