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白川城 陸奥 鎌倉時代から戦国期にかけての広範囲な城郭遺構が次々発見されている

2023-07-28 | 歴史

白川城は福島県白河市藤沢にあり通称搦目(からめ)城ともいわれています。今回は東海古城研究会の見学会で訪れました。源頼朝の奥州征伐で活躍した結城朝光は白河庄を与えられ、孫の祐広が下総結城から移住して、白川城を本拠としたと伝えられています。その後、結城氏は南北朝期に義良親王(後村上天皇)を奉じて北朝方の足利尊氏と戦い奥州南朝派の雄族となりました。初期白川城の築城年代は南北朝時代と考えられており永正年間(1504~1520)には、白川結城氏の本城は小峰城に移ったものと推定されています。今回は御本城山と呼ばれる主郭とその周囲を見学しましたが、周辺には多数の城郭遺構があり、巨大な城郭群の存在が明らかになりつつあるようでした。今回の参考資料は当日配布の見学会資料等です。


白川城 御本城山を中心とした広範囲の城郭群が明らかになりつつある
 阿武隈川と藤野川にに挟まれた丘陵地に築かれた城郭遺構は近年の踏査によって広範囲に広がっていることが明らかになりつつあるということです。


白川城 御本城山と言われる主郭部と周囲を見学
 ボランティアガイドさんの現地ならではの情報を交えた案内がありました。御本城山と呼ばれる主郭部(Ⅰ郭)以外は整備が行われていないようで、雑草に覆われて見学会での見学は難しい状態でした。


白川城 道路から林道の周囲を見学しながら御本城山に向かう
 見学会はバスですので林道へは入れませんが、乗用車ならば、御本城山(Ⅰ郭)の直下まで行けそうでした。


白川城 Ⅰ郭周辺はよく整備されている
 Ⅰ郭から南に延びる長大な土塁①の西側の林道Cを歩きました。土塁①はの部分が開口しており②の部分は切通になっていました。Ⅱ郭、Ⅲ郭にも遺構が見えましたが、雑草に覆われて明確には確認できませんでした。


白川城 Ⅰ郭 登り口 後世の整備か
 往時の白川城は、阿武隈川に向いた北側が大手方向だったのではないかと想像しました。林道Cの敷設などにより南側からのアクセスが便利になって、階段なども整備されたのではないかと思いました。


白川城 土塁①の開口部a 西から 左上にⅠ郭
 Ⅰ郭から南に延びる土塁①は高さと幅のある長大な土塁ですが、Ⅰ郭の根元で途切れて開口部aとなっていました。往時の姿は明確ではありませんがここまで掘り下げたのは後世の山仕事の為ではないかと想像しましたがどうでしょう。


白川城 土塁① 南部の切通② 西から
 土塁①は南に延びていましたが、高さと角度が在る為林道沿いからは登って見ることが出来ませんでした。南側の谷地形からは近づけましたので、幅広の土塁の天端を見ることが出来ました。ちょうど切通状の開口部がありましたが、後世の山仕事の切通道ではないかと思いました。


白川城 Ⅰ郭 後村上天皇聖跡之碑が立つ 南から 奥に土塁④と石碑⑤
 白川城は南北朝の動乱期に義良親王(後村上天皇)が陸奥国の足掛かりとして逗留した事績を示す碑が「後村上天皇聖跡之碑」として整備されているⅠ郭に立っていました。


白川城 Ⅰ郭の土塁④ 南から 右の土壇上に石碑
 Ⅰ郭の北辺には、分厚い土塁が残存していましたが、周囲を土塁が取巻いていたかどうか確認できませんでした。ヒョットすると北辺だけに土塁があったのかもしれませんね。


白川城 Ⅰ郭北辺の土壇⑤上に大きな石碑が立つ
 大きな石碑は近年に建てられたもののようですが、土壇は左側の土塁④と一体だったように見えました。両者の間の開口部は、図3の道bに接続しています。ガイドさんの解説によると、道bは土壇⑤の大型石碑を運ぶために設けられた近年の道ということでした。


白川城 Ⅱ郭  道bで分断された土塁?
 資料によるとⅡ郭では、発掘調査で堀切と土塁が検出されたとありました。写真はⅡ郭の土塁の可能性が感じられた地形です。堀切は不明でした。いずれも道bを造成する時に改変があったと思われます。ちなみにⅢ郭での発掘調査では、門の跡と思われる柱穴等が検出されているようです。

白河城は広大な城域のごく一部の見学となりましたが、鎌倉期からの長い歴史をわかりやすく解説するガイドさんの説明を聞きながらの見学で良かったです。